多古町の『隠れ卵塔』と日講聖人

先日、香取市にある『みちの駅 くりもと』に行ってきました。
佐倉市のネタではなくてすみません。
佐倉から、51号線をひた走り、国道44号に入って相当行くと到着。
今回は、そこで偶然みかけた『隠れ卵塔』という史跡がありましたのでそちらについて少々報告します。

『卵塔』というのは、お坊さんのお墓に用いられる石塔のことですので、『隠れ卵塔』などというときっと誰ぞに弾圧されたお坊さんのお墓があって、その悲しき物語があったりするのだろうと思って見に行きました。

道路からこんもりと土が盛られた小さな丘に、こんな具合に破壊/修復された石塔が並んでいますが、卵塔はどこにも見当たりません。
そこで、この場所に掲げられている看板を読んだところ、やはり『弾圧されたお坊さんの物語』がありました。

ざっと説明すると以下のとおり。

日蓮宗の宗派のひとつに「不受不施派」というのがあって、その教えが江戸幕府の政策にあわず、弾圧されたそうです。
その派の偉いお坊さんであった日講は、幕政批判を展開した罪で、1665年、今の宮崎県佐土原町に流罪になってしまいます。しかし、かの地で日講は「一萬部読経」なる行を成就したそうで、その記念に日講の弟子たちの手によって1705年に建てられたのが、どうやらこの石塔群であるようです。
しかしながら、1794年に、この石塔群は当時の為政者の知るところとなり、看板のとおりに言えば『石塔は三日三晩焼かれ、そして打ち砕かれ土中に埋められ』たのだそうです。
なんともひどい仕打ちです。宗教にはあまり関心のない私も、気の毒だと思いますね、これは。そんなたいそうな弾圧を受けたということは、この地に日講さんの教えを守っていた宗徒の方がけっこうたくさんいたのだと思いますが、その人達もこのときひどい仕打ちを受けたんでしょうか。
その後、明治になり、宗教弾圧もなくなってから、1876年、看板にあるとおり書くと『沢の信徒や堀越義昌氏』らによって、掘り出され組み合わされたのが、今に見る『史跡 隠れ卵塔』とのことです。
『沢の信徒』の意味が今ひとつわかりませんが、この地に『隠れキリシタン』ならぬ『隠れ不受不施派』が、脈々と日講さんの教えをつないでいたんですね。
写真をみていただくとわかりますが、確かに石塔がこれでもかというくらい砕かれます。石がササラみたいになっているので、針金でぐるぐる巻になっていたりしてます。
宗教って、すごいですね。いろいろ考えさせられました。

※興味があったら下の写真をクリックしてください。少しだけ大きくなります。

追記
ちなみに、この近くの多古町にある東禅寺は、かの千葉一族の惣領であった千葉胤直(たねなお)公が亡くなった地でもあります。室町時代の中期に、関東の覇権をめぐる争いに飲み込まれるかたちで、千葉一族は『鎌倉公方派』と『関東管領上杉派』に真っ二つ分かれてしまいます。
千葉惣領の胤直公は上杉方につきますが、幕張のあたりを居城としていた公方派の馬加康胤(まくわりやすたね)公らの夜襲にあい、今の千葉市中央区亥鼻にあった城から逃げてきたのが、多古町でした。
その後、馬加康胤公の激しい攻撃を受け、落ち延びた先の東禅寺というお寺で、胤直公は自害してしまうことになります。享年42歳前後。このとき、息子の胤宣は弱冠15歳で胤直公と運命をともにしています。
この後、いろいろあって千葉一族は結局本佐倉城を居城にするわけですが、そのあたりの顛末は次回公演でくわしくお話しします。
それにしても、多古城跡と東禅寺は、見ておきたかったぜ。

※文章中、「多古町」としていたところを、「香取市」に変更しました。ご指摘くださったひらやま様、遅ればせながらで恐縮ですが、ありがとうございました。

※ほりこし様「沢の信徒」の「沢」は地名でしたか。ご教示いただきありがとうございました。

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コメント: 2
  • #1

    ひらやま (日曜日, 06 4月 2014 21:33)

    道の駅の場所は、旧栗源町で現在の香取市です。多古町ではありません。実際多古町にも不受不施派の地区があります。

  • #2

    ほりこし (月曜日, 17 7月 2017 12:14)

    「沢の信徒」の沢とかくれ卵塔周辺の地名です