小篠塚城と中世の佐倉 2

小篠塚城の歴史 前編

前回紹介した小篠塚城公式サイトに「小篠塚城の歴史」というページがありますので、それを元に解説します。

『1284年:千葉宗家直臣が佐倉地域を知行した』
とあります。1284年といえば鎌倉時代の後期です。千葉一族は、元寇に備えて、本宗家の跡取りである千葉宗胤(むねたね)が九州に行ったまま帰ってくることができないため、その弟の胤宗(たねむね)が跡目を取るかどうか、という微妙なお家事情があった時代です。
弟の胤宗サイドの派閥としては、兄がいない間になんとか家臣団に自分の与党を増やしておきたいという思惑もあったでしょうから、そういう力学が働いての「知行」なのかもしれません。
『平河新兵衛入道・平河左衛門四郎等が所領を有していた』
とありますので、おそらくこのあたりは平河家が知行した、ということなのでしょう。
『13世紀末期、千葉氏により小篠塚城築城』とありますが、この頃に今見られるような立派な城としての体裁があったかどうかは難しいところです。ただ、13世紀の世紀末といえば、鎌倉幕府がいよいよ崩壊寸前の状態に追い込まれている時代ですから、地方豪族たちも自分の所領を守るために城の整備をはじめたとしても不思議はありません。
この後、小篠塚城の公式サイトでは日本の歴史の流れが紹介されているのみで、小篠塚城の動向を知る情報は掲載されておりません。
次に、小篠塚城が出てくるのは、
『1471年:初代鎌倉公方足利成氏古河を追われ千葉氏を頼り約1年間小篠塚城に動座』
という、歴史的な大事件についてです。
確かに、このとき足利成氏が堀越公方の征伐に失敗し、当時居城としていた古河城をも追われ、千葉孝胤を頼ったということはよく知られた事実です。
しかし、この時成氏が千葉孝胤の手引きでどこに居住していたのか、というのは『歴史の謎』の一つなのです。
まず、事態を複雑にしている要因の一つに、そもそも千葉一族が1471年に本佐倉城を居城にしていたかどうかが、よくわかっていないという点があります。
千葉側の本拠地がわからないのに、その千葉を頼った足利成氏がどこにいたか、なんてわからないよ、という話しです。
この時期の足利成氏が、小篠塚城に一時的な居を構えた、という説以外には
・千葉亥鼻城の周辺
・多古町の周辺
・本佐倉城の周辺
などがあるようですが、いまのところ定説らしきものはないようです。
この翌年、つまり1472年に、足利成氏は古河城を奪還して、古河に戻っております。
では、このとき、古河公方が「小篠塚城に住まった」という説の根拠はというと、若干複雑になりますが、以下のとおりになります。

千葉一族というのは、時代を少々さかのぼり、1450年代の室町の中期に、『下総千葉氏』と『武蔵千葉氏』に分裂するんです。そのあたりの顛末の詳細は次回簡単にお話ししますが、とにかくそういうことになる。
そのとき、古河公方である足利成氏は、どちらかというと『武蔵千葉氏』が本家になってもいいんじゃない、っていう立場を、あくまで『ないないに』もしくは『ひそかに』とるのです。
古河公方がそんな立場をとったことを聞いて穏やかでいられないのは『下総千葉氏』の頭領、千葉孝胤です。
「古河公方の成氏さんよ、ふざけんじゃないよ」という剣幕でくってかかる。
戦で負けて、自分の元に逃げてきてるにもかかわらず、何余計なこと言ってくれちゃってるのよ、という気持ちが爆発したわけです。
『太田道灌状』という文書に、そのあたりの顛末が書かれていて、このとき千葉孝胤が足利成氏に詰め寄ったのが篠塚の公方屋敷、となっている。それを根拠に、当時足利成氏は小篠塚城にいたんじゃないか、という推論がたつわけです。

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