宗圓寺と明治の烈士・戸村芳蔵について 2

今回は、西南戦争に従軍した戸村氏の活躍を中心にお話しします。
通俗絵本鹿児島軍記
秋元房次郎編
この本は、完全に新政府側の視点から書かれています。
西郷隆盛が率いる反乱軍を、尊皇攘夷を口実に、開国進歩をよしとせず、ただ不平をつのらせ政府を恨む破廉恥な連中だ、ともう散々な言いようです。
また、反乱を起こした西郷隆盛を『君側の奸』とし、承平天慶の乱を起こした平将門や藤原純友になぞらえ非難していることからも、当時の将門の扱いを知る上でとても興味深い内容になっています。
さておき、この書になんと若かりし頃の戸村芳蔵の勇姿が描かれております。しかも、
第卅一回 ◇船川戦ひ敗れ有田生捕られる並戸村芳蔵竹宮に激戦す
なんて、章題で名前が出るという大扱い。びっくりしました。
この「戸村芳蔵」が主役の三十一回は、鹿児島と肥前の堺、宇土周辺で行われた薩軍と新政府軍の激戦の様子を、時間単位で克明に描き出しています。
当時の戦は、大砲、鉄砲がもっぱらで、白兵戦では刀や銃剣をもって戦っていました。この本が新政府側のプロパガンダとはいえ、その部分を差し引いても「賊軍」として扱われている反乱軍側の近代兵器の物理量の劣勢はぬぐいきれないものがあり、少々気の毒になります。
また、この章の途中に
「内閣顧問従三位勲一等木戸孝允今日午前六時三十分薨去」
明治十年五月二十六日に、太政大臣の三条実美の名前で、さらりと書き込まれている。Oh、三条実美!
木戸孝允といえば、坂本、高杉、西郷などと肩を並べる幕末のビッグネームです。彼の死が、西南戦争の趨勢を伝えるプロパガンダの文章で伝えられているあたり、明治維新がいよいよクライマックスを迎えている当時の空気を感じないわけにはいきません。

脱線ばかりして先に進みませんが、戸村の話しに戻ります。
抜群に勇敢な戦士は各隊に多いけれども、東京歩兵第一大隊第四中隊伍長代理戸村芳蔵はすごいぜ、という文章が、この「三十一回」の章の後半に出てきます。
明治十年四月二十日、竹宮の戦いで、敗れた薩軍を追った新政府軍の一隊が、薩軍の待ちぶせにあい囲まれます。もはやこれまでと思ったところ、戸村は「一人を銃創(ママ)にて突き倒し逃る一人を砲撃するにより 凶徒は怒って再度瀕激し 二人が烈敷(はげしく)斬りつくるを 又も一人砲撃せしにあやまたず 砲声と共に斃れたり 一人を■■へ突殺し 静静と隊中へ立帰り来りしに 銃創刀傷(なまきずたちきず)も二三個所ハあれども 更に屈せず気力少しも衰えざるは賢に稀なる勇士なりという」
壮絶です。
この後も、激戦の様子が克明に描かれておりますが、この地獄のような戦をくぐり抜けたことが、戸村の死生観に大きく影響を及ぼしたのは間違いないでしょう。
戸村はこの後、明治十四年(1881年)に千葉県巡査となり、二十四年(1891年)には巡査部長となって佐倉警察署に勤務したそうです。
そして、翌明治二十五年(1892年)、佐倉で天然痘が大流行し死者が続出する中、検疫、消毒等の処置にあたり、自らも天然痘に罹患し、42歳で亡くなっています。
幕末から明治という激動の時代に翻弄されつつ、自らの役割を果たすという筋を曲げずに生きた烈士の生き様を紹介いたしました。
もし、宗圓寺に来ることがあれば、本堂の右側に戸村の功績を讃えた「盡道之碑(じんどうのひ)」が建っておりますので、参拝しつつ彼の思いがどんなものだったのか考えてみてはいかがでしょうか。

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