甲斐武田最後の当主、武田信吉(のぶよし)は、近世佐倉の初代領主だった 1

1590年、千葉氏は豊臣秀吉の小田原征伐とともに、戦国武将としての役目を終えました。その2年後の1592年、秀吉の世になってはじめて佐倉の地の領主となった人物が、なんとあの武田信玄を排出した名族、甲斐源氏武田宗家の最後の当主だったということは、あまり知られていません。
私がこの事実を知ったとき、ひっくり返るくらいに驚きました。だって、武田は信玄の後を継いだ勝頼が織田信長に長篠の戦いで大敗した後、天目山で自害して果てた時点で滅亡したと思っていたから。
確かに、それは間違いじゃないんです。でも、一方ではそうじゃないとも言える。
今回は、そんな「佐倉・歴史のビックリ複雑ニュース」を紹介します。

時は戦国時代末期の1575年、世はもはや、織田信長により近世の扉をこじ開けられようとしておりました。
長篠の戦いというのは、「大量の鉄砲を使った戦術」対「騎馬武者戦術」という、新対旧の戦いとも言え、結果はご存じの通り織田軍の圧勝、武田勝頼軍敗走となりました。この後、勝頼はなんとか巻き返しを図るべく他国との同盟などによる政治工作を開始しますが、もはや世を逆戻りさせる力は残っておらず、1582年天目山にて自害しております。
この時点で、確かに「戦国武将」としての武田家はその役割を終えています。
この後、徳川家康が甲斐武田氏の名跡を惜しみ、武田の血を引く武田信治を当主に据え置きますが、信治はわずか16歳でこの世を去ってしまいます。なかなかうまくいかないものです。
そして、1590年の小田原征伐が秀吉勝利のうちに終わると、家康は再度武田氏の復活を画策します。
家康が武田宗家の跡取りとして白羽の矢を建てたのは、なんと自分の息子である武田信吉(のぶよし)でした。
「そんな、無茶な」と思うかもしれませんが、意外にそうでもないんです。この武田信吉という人物の母は、武田の遠い分流であり、武田家の譜代家臣でもあった秋山氏の娘・於都摩(おつま)なのでした。つまり、家康は武田氏の血を引く女性を側室に迎え入れ、その側室との間にできた子を武田の跡取りにした、という次第。それならば、当時としてはあり得ない話じゃありません。

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