勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 2

◆勝胤の時代の三つの事件

まずは、勝胤の時代に起きた有名な三つの事件についてお話します。
一つ目は、古河公方(こがくぼう)との抗争。このブログを読んでくれている人はお分かりになるかもしれませんが、古河公方というのは、将軍足利の血筋で、おおきなくくりで言うと「関東の将軍様」的な地位の俗称を指します。もともとは、室町幕府の出張所である鎌倉府の長官職が「鎌倉公方」と呼ばれていたのですが、関東のナンバー2ともいうべき上杉家との抗争を発端に、今の茨城県古河市に城を設けてそこを居城にしたことから、「古河公方」と呼ばれるようになりました。
佐倉の千葉一族は、この「古河公方」のお墨付きをもらって下総に君臨していたという側面が強くあったために、この一族との抗争はできれば避けたかったはずです。
抗争がはじまった経緯は、当時の書物が残っていないためよくわかりませんが、唯一の手がかりとして、山内上杉顕定から足利政氏奉公衆「二階堂左衛門尉」への書状があります。この書状には、この抗争の原因を、古河公方足利政氏から千葉孝胤に下した命令に対して、孝胤が無視を決め込んだことである、という趣旨の内容が書かれているそうです。
いずれにしても、そういう「ちょっとよくわからない」理由により、古河公方足利親子がわざわざ古河くんだりから船に乗って、本佐倉城から半日もかからない距離にある小篠塚城に陣取って、にらみをきかせたようです。
この古河公方親子の「篠塚御陣」は、結局1502年から1504年まで、三年近く続きました。迷惑な話です。
勝胤が惣領だった時代ではありますが、この件で足利政氏と交渉したのは、勝胤の父である孝胤だったようです。今の六崎のあたりにあった館で「休戦」交渉が行われたようですが、なんというか、他にやること無かったのか、政氏?と問いたい感じです。

もう一つは、北条早雲、氏綱親子の、急激な勢力拡大です(当時は、まだ「北条」を名乗らず「伊勢」としておりましたが、まぎらわしくなるので「北条」で統一します)。幕命により堀越公方茶々丸を殺害したのが1498年。名族三浦氏を滅ぼして、相模を平定したのが1516年。将に、破竹の勢いです。実はその間、1513年に北条親子が下総の地に侵出してきたのをきっかけに、勝胤と武蔵の地で刀を交えています。このときは、千葉と北条はまだ敵対関係にあったわけです。

そして最後に、これがたぶん「佐倉千葉氏」にとっては後々一番響いてくる大事件が勃発します。
「小弓城の陥落と小弓公方の成立」です。
小弓城は、今の千葉市中央区南生実町にあった城です。この城の城主は、千葉一族の庶流である原氏。この城は、上総からの敵を食い止める防衛ラインとして、とても重要な拠点のひとつでした。それだけに、この城は代々精鋭部隊が駐留し、当時上総の地を治めていた真里谷(まりがやつ)武田氏(以下「武田」とする)などの敵の軍勢を寄せ付けない堅城ぶりをみせていました。この城が、1517年、足利義明を担ぎあげた武田氏により落とされたのです。
足利義明という人物は、古河公方足利政氏の子で、三代目古河公方高基(たかもと)の弟です。古河公方になれなかった彼は、いっときは出家しておりましたが、上総から下総へ勢力を伸ばそうという野望をもった武田氏にそそのかされて、足利義明という俗名を得て還俗しました。
「足利将軍家の血筋の後ろ盾」という大義名分を得た武田氏は、大軍をもって下総の前線基地である小弓城に攻めかかります。小弓城城主原とその家来たちはよく持ちこたえますが、ついに力尽き落城しました。結局、小弓城は武田方にのっとられ、足利義明が城主となり、その時点をもって自らを「小弓公方」と僭称することになるわけです。

武田二十四将の図。この中に原虎胤がいるはず。
武田二十四将の図。この中に原虎胤がいるはず。

このとき敗走四散した原氏の一人が原虎胤(とらたね)といいます。この人物は甲斐の国まで落ち延びるのですが、なんと後に武田信玄の元で「武田の二十四将」のうちの一人となり、重鎮として畳用されることになります。人生、わからないものです。
元へ。この落城の折、千葉勝胤はおおいに怒り、数年前戦を交えた北条早雲に小弓城奪還作戦の共闘をもちかけますが、無下に断られております。北条側に共闘を断られた勝胤は打ち手をなくし、歯ぎしりしながら武田との和睦を結びました。
この対立構造が、後に「第一次国府台合戦」に結びついていくことになるのですが、それはまたの機会にしたいと思います。

このように、勝胤の治世は戦続きで苦労は多かったものの、佐倉千葉氏の歴史としては唯一、党派性の薄い時代だったともいえるのではないでしょうか。
「古河公方」の権威のゆるやかな失墜と「北条」の急激な成長の端境期(はざかいき)、それがそのまま勝胤の治世と重なった、という見方ができそうです。

 

>>勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 3

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