勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 3

◆千葉勝胤の文化遺産

さて、今度はこの勝胤の文化的側面についてお話します。
佐倉千葉一族の中では、勝胤はもっとも大きな文化遺産をなした人物です。
一つ目は、勝胤が1514年に編纂した「雲玉和歌集(うんぎょくわかしゅう)」です。選者は衲叟馴窓。読めませんね。「のうそう・じゅんそう」と読むそうです。江戸の歌人だとか。
和歌集編纂は、もっぱら雅やかな文化が花咲く都の専売特許事業なので、この時期の関東ではめずらしいことのようです。
この和歌集の冒頭部分には

平のなにがしと申したてまつりて弓馬の家にすぐれ、威を八州にふるひ、諸道の達して政に両総にをさめ、なかにも大和歌にこころをよせて佐倉と申す地に幸草(さきくさ)のたねをまき給ふ。…(略)「←以上、酒々井町のサイトより抜粋」

とあり、この「平のなにがし」が千葉勝胤のことと言われています。当時は「勝胤」のような名前を「諱(いみな)」といい、人前で口にだすことはありませんでした。まして書き言葉として残すのは、憚られたわけです。
この和歌集には、千葉氏とは完全なる敵対関係だった東常縁(とうのつねより)や太田道灌の和歌も載せているそうで、なかなかに懐の深い印象があります。ちなみに、勝胤の歌は残されていないとか。あな、奥ゆかしや。

そして、二つ目の文化事業が勝胤寺の建立です。
勝胤は、晩年禅宗に帰依し、1532年にこの寺を建立しました。釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院で、「華翁祖芳和尚」を招き創建したと伝えられています。
この寺には、千葉勝胤以降の惣領、およびその妻の供養塔がみられます。たとえば、暗殺された親胤(ちかたね)の後を継いだ千葉胤冨(たねとむ)、こちらも暗殺されたとされる千葉邦胤(くにたね)とその妻、邦胤の遺児にして千葉氏滅亡の折は北条に囚われていた千葉重胤(しげたね)など。ちなみに、幾度かの地震により倒壊を繰り返したために、石積みの上下がやや怪しくなってしまった石塔もあるそうですが、いずれにしても貴重な文化財的価値の高い供養塔群です。

 

>>勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 4

千葉氏慰霊塔群
勝胤寺を入ってやや左手の小高いところにひっそりとたたずむ石塔群。
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