臼井城主の交代劇と城主たちの菩提寺(円応寺と宗徳寺)

◆臼井城は佐倉の激戦地

臼井城は、佐倉にあって唯一、戦国の激戦を多数経験した城と言えます。
江戸時代の佐倉城はもちろん、戦国時代に成立した本佐倉城でさえ、戦禍に見舞われたことはないのです。
一方臼井城は、太田道灌やら上杉謙信やら、里見の家来筋の正木氏やら、関東の有名武将たちから攻められ、激しい籠城戦を経験しています。
理由は、当時下総を治めていた千葉一族の有力な敵のほとんどが、佐倉からみて西側にいたことに由来します。そのため、千葉一族の本拠地である本佐倉城を落とすには、その西側にある臼井城を無力化しなければ先に進めなかったのです。事実、戦国時代も半ばを過ぎると、当時臼井城城主でもあった原氏の強大な戦力を端的に表現した「千葉は百騎、原は千騎」という標語も出まわるくらい、原氏の軍事力は宗家の千葉氏を凌駕していたわけですから、千葉氏の本拠地本佐倉城を攻めるには、臼井城を陥落させることは必須条件であったのです。
もちろん、本佐倉城からみて南側にも千葉氏の宿敵里見氏がおりましたが、南から攻め上がるには小弓城を居城としていた小弓原氏が睨みを効かせ、そのほかにも佐倉に辿り着くまでに中小規模の城がひしめいておりましたのでおいそれとはできない。加えて、里見氏は佐倉に大軍を差し向けた場合、後ろから小田原北条氏が襲いかかってくる可能性が高かったために安易に動けなかったという事情もあります。そんなわけで、里見氏が下総で合戦するときは、小田原北条氏も大軍を動かしている時期に限定されるわけです。たとえば、国府台合戦とか。
一方西側は千葉と敵対関係にあった太田氏が武蔵の地(今の東京)を治めていたため、臼井城までは千葉氏側の有力武将の反撃に遭遇する可能性が少なかったわけです。

◆臼井城城主の交代劇

臼井城主は、臼井氏の時代と原氏の時代とに分かれます。
表にするとこうなります。
1114年から1560年頃→臼井氏
1560年頃から1590年→原氏
上の表のとおり、原氏が城主を務めていた時代というのは戦国末期の30年のみ。それ以前は、何度かの浮沈はあったものの、長らく臼井氏により治められていた城です。
臼井氏と原氏は、ともに千葉氏の家臣筋にあたります。城主の交代劇については、伝説を含め興味深い話がいくつか残されています。
千葉氏関連の読み物として、私の好きな書物に「千葉氏とその一族の興亡」というものがあります。府馬清の著作で、史実と伝承とをとても読みやすい平易な文章で綴っていて、入門書としては最適だと思います。ただし、昭和59年の著作物で今日では絶版となっているため、読みたいときは図書館で借りなければなりません。また、現在の定説と照らすと時々「?」と思われる記述があるため、すべてを鵜呑みにすることはできません。
ですが、それらの状況を考えあわせても、とても面白い本ですのでおすすめです。
この本の「星の巻」に、臼井城での城主交代劇の記述があるので要旨を紹介いたします。

1557年、臼井景胤が亡くなる間際、その子久胤は14歳でした。そこで臼井景胤は、親戚である小弓城主原胤貞に、我が子と臼井城を守ってほしいと遺言します。
臼井景胤の死後、原胤貞は臼井に来ると、14歳の臼井久胤を外の屋敷に追いやって、自分が本丸に入り執務しました。
原胤貞は、家臣たちの俸禄を上げ、百姓たちから徴収する税を下げることで、臼井での人気を高め地盤を固めます。このころ、原胤貞は「臼井、小弓両城主」と称したそうです(出典不明)。
原胤貞にないがしろにされた臼井久胤は、1561年の正木大膳の臼井城攻めの折臼井城を脱出し、今の茨城県結城市にあった結城城に身を寄せました。

という次第。当時としては、とてもありそうな出来事ではあります。
さて、前置きが長くなりましたが、その臼井氏の菩提寺が円応寺で、その後臼井城に来た原氏が創建した寺が宗徳寺です。

今後も、私が書くいろいろな記事にこれらの寺のことは出てくると思うのですが、今回は主に撮影した写真をアップする、くらいな意味合いのコンテンツになります。

◆円応寺、宗徳寺について簡単に

さて、いよいよ円応寺、宗徳寺について。特に円応寺には、臼井城主の命を救った忠臣「岩戸胤安」の墓や、当時のものと思われる銚子砂岩でできた五輪塔など、とにかく文章をもって紹介したいものがたくさんあるのですが、それはまた追ってということで。
今回は、それぞれのお寺について佐倉市の文化課が作成している文化財のページの文章を転載させていただきます。「それ、意味あんのかよ?」とか言われるかもしれませんが、私がとった写真をみつつ、市によって推敲を重ねられた紹介文を読むことができるという点に価値を見出してくださる方がいるのでは、と勝手に考えております。
それぞれのお寺にある個別の文化財やら何やらの紹介は、稿を改めて紹介させていただきますので乞うご期待です。

円応寺(えんのうじ)

瑞湖山円応寺は、釈迦牟尼仏を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院です。円応寺所蔵の「円応寺草創記」によれば、歴応元年(延元3年、1338)に臼井氏中興の祖である臼井興胤<うすい・おきたね>により創建されたとされます。開山は竹若丸(後の興胤)を養育した鎌倉建長寺の仏国禅師とならび、陰で臼井家の再興を支えた仏真禅師で、師の恩に報いたものです。以来、臼井氏の菩提寺として崇敬されてきました。
寺領は広く風光明媚で知られ、臼井城跡とともに「城嶺夕照」として臼井八景の一つに数えられました。
文禄2年(1593)に酒井家次が臼井に居城のとき城とともに消失したものを後に再建したものです。

※以上、文章は佐倉市公式サイトより抜粋。

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宗徳寺(そうとくじ)

長谷山宗徳寺は、般若船観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院です。臼井氏の後に臼井城主となった原氏の菩提寺で、応永10年(1403)に小弓城主原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建されました。元亀元年(1570)に原胤栄<はら・たねよし>が臼井城主となって以後のある時期、臼井城の周囲に配置されていた砦の一つである手繰砦の麓、長谷津(南臼井台)に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併しました。
宗徳寺の「権現水」という清水は、昔この地に徳川家康が狩に訪れた際この水を賞味し、寺領10石を賜ったことに由来する名であると伝えられます。

※以上、文章は佐倉市公式サイトより抜粋。

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