2019年

2月

11日

臼井城をめぐる大戦は佐倉勢の一勝一敗。 太田道灌の弟、太田図書助資忠(おおたずしょのすけすけただ)の勝利と討ち死に

戦国時代、佐倉一帯は下総の雄である千葉一族に治められていました。

当時の千葉一族の本拠地は本佐倉城。京成本佐倉の駅からほど近い、北側に印旛沼を擁した天然の要害でした。

その千葉一族の家来筋ではあるものの、武力としては本家をしのいでいたとも言われるのが、臼井城を本拠地とする臼井一族です。

さて、この臼井城は、千葉一族の勢力に襲いかかる上杉勢との、最前線の城でもありました。

 

臼井城籠城戦として記録に残っている二つの戦のうち、文明11年(1479)にあった最初の戦で臼井城が落城していた、というのは、意外に知られていない史実です。

このとき、上杉方の武将として臼井城を攻めたのが、江戸城を築城したことで有名な太田道灌の弟(一説には甥とも)、太田図書助資忠でした。

また、この太田図書という人物、臼井城籠城戦で勝ちはしたものの、討ち死にしているのです。現在でも、臼井城跡の近くに、太田図書の墓と伝わる石碑を見ることができます。

さて、この激戦でいったんは落城した臼井城でしたが、どういう経緯かすぐに千葉一族、臼井氏連合軍に奪還されます。戦国時代の、激しく動く勢力図を見る思いがします。

ちなみに、二つ目の籠城戦は、永禄9年(1566)上杉謙信本人が臼井城を攻めたものの、見事臼井城側が上杉勢を撃退したのは比較的有名な話です。

 

そんな戦国時代の激戦を思いつつ、臼井城址を散策してはいかがでしょうか。

臼井城址には、小さいですが駐車場もございます。道が狭いので、お車の方はご注意ください。

2018年

8月

29日

佐倉学リレー講座番外編「佐倉の不思議な、ふしぎーな、お・は・な・し!」にお集まりいただいた皆様、ありがとうございました。

本日は、佐倉学リレー講座番外編「佐倉の不思議な、ふしぎーな、お・は・な・し!」にお集まりくださいましてありがとうございました。なんでも、100人以上のお客様がご参集くださったとのこと、夏休み終わり間近の、いろいろな意味で大変な時期にお越しいただき、重ねて感謝申し上げます。
第一部は、古今佐倉真佐子から「へび坂のおそろしいはなし」と「カムロちゃんのおはなし」の二本、第二部は「竹若丸と臼井城」のお話しをさせていただきました。
佐倉市には、とても魅力的な歴史や伝説がたくさんあります。今日は、小学一年生を対象とした講演でしたので、極力わかりやすく、できれば愉しく聴いていただけるよう工夫をしたつもりですが、いかがでしたでしょうか。
佐倉市には、まだまだ面白い話しがたくさんありますので、がんばってレパートリーを増やしていこうと思っております。
末筆になりますが、本イベントを主催いただいた佐倉市の皆様ほか、ご協力くださった皆様に心よりお礼申し上げます。

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2016年

7月

13日

佐倉歴史同好会の皆さま、ありがとうございました。

本日午後1時30分から、臼井公民館学習室にて「阿多津(お辰)伝説と臼井城」と題した講演を、佐倉歴史同好会様主催にて実施いたしました。

佐倉歴史同好会は、設立から20年もの歴史を誇るサークルとのことで、メンバーの皆様からはたくさんのご質問をいただくなど、向学心の旺盛な方々ととても楽しい時間をいただきました。

今回の講演は、臼井の歴史を飛び出して「伝説(物語)が歴史に果たす役割とは?」という切り口で前半を構成してみました。物語の事例として出した佐倉惣五郎、やはり人気があるのだと、改めて痛感した次第です。

また、皆さまとお会いできるのを楽しみにしております!

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2014年

8月

30日

出版記念講演にご来場いただきありがとうございました

『「お辰と臼井城」からみる中世の佐倉』と題した本日の講演会は、51名もの方にご来場いただきました。当初想定していた40名の定員を大きく超えるご予約をいただきましたが、西志津ふれあいセンター様のご助力のもと、ご応募・ご来場いただいた皆様全員にお越しいただくことができました。

ご来場いただきました皆様、および、本公演にご尽力くださいました関係者の皆さまに、改めましてお礼申し上げます。

今回は、いわゆる「伝説」をベースに組み立てた「プロジェクター紙芝居」ともいうべきジャンルの演目となりました。今回の講演は、特に皆さまよりご好評のうれしいお言葉を多数頂戴しましたので、今後この手法を多く取り入れた演目づくりをと考えております。

今後も、不定期ではございますが講演活動を続けていく所存でございますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。

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2014年

7月

02日

佐倉市域・中世末期の石造物と銚子石(銚子砂岩)について

佐倉にある銚子石の石塔たち

室町時代の後期から江戸時代のはじめまでのごく短い期間、佐倉市域では銚子石の石造物が多くつくられました。
銚子石というのは、文字通り銚子でとれる石なのですが、砂岩ですので長期間風雨にさらされるともろいという特性があります。
室町後期といえば、佐倉市域は、いわずと知れた「佐倉千葉氏」の縄張り時代です。
そんなわけで、千葉氏の慰霊塔としてある勝胤寺や海隣寺の石塔群のほとんどが「銚子石」でつくられています。

とはいえ、勝胤寺と海隣寺の石塔を見比べてみると、色がずいぶん違います。

はじめて海隣寺の石塔群をみたとき、あまりにきれいなうすい褐色の肌合いに「イミテーションか?」と思ったくらいです。
確認したわけではないのですが、おそらく海隣寺のそれはどこかの時点で洗浄などの掃除をしたのではないでしょうか。
というのも、すでに絶版になっている「ふるさと歴史読本」の「中世の佐倉」に、海隣寺の石塔群が「灰褐色」で「コケむしているように見える」というような表現があり、実際に掲出されている写真も確かにそのとおりなのです。今の姿と比べると、これまたぜんぜん違う。むしろ、勝胤寺の石塔群の現在の様子に近いです。
この本が出版されたのが平成12年ですから、それから現在にいたるまでのどこかで、何らかの手が入ったとしか考えられないのであります。

銚子は犬吠埼の原石たち

前置きがながくなりました。
実は先日、銚子に行く機会がありまして、もしできれば「銚子石」ってどんなものなのか、現場でみたいものだと、漠然と思っていたのでした。
そんなことを考えながら犬吠埼灯台下の海岸に行ってみると、銚子石、ごろごろしてました。
これがそのときの写真です。

犬吠埼の海岸にころがる銚子石たち
犬吠埼の海岸にころがる銚子石たち

灰色のもの、薄茶色のものなどまちまちですが、砂岩独特の「ざらっとした」手触りが伝わりますでしょうか。
上の写真の一番手前にある薄茶色の大きな岩を見たら、こんどは現在の海隣寺の石塔の礎石の色と表面の感じをみてください。

海隣寺の石塔礎石
海隣寺の石塔礎石

そっくりですよね。当たり前のことなのですが、なんだか少し感動してしまいました。
おそらく、今私たちが見ることができるこれらの石塔の石は、銚子のこのあたりから切り出され、当時「香取海」と呼ばれた内海を使って船で運ばれてきたに違いありません。


現場で石塔を見ると、安山岩などの石塔と比べると明らかに風化の速度が速いことがわかります。おそらく、あと100年もすると彫り込まれた文字などはほとんど読めなくなるのではないでしょうか。

残念が気もしますが、慰霊塔という目的のとおり、寺域でひっそりと時代を刻むのが、いいのだろうとも思います。

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2014年

7月

01日

佐倉城址公園。佐倉城→佐倉連隊→現在をつなぐ「夫婦モッコク」2

■大戦と兵士と夫婦モッコク

さて、そんな神々しい「夫婦モッコク」ですが、実はある人物の手により、イタズラ書きが彫り込まれています。
とはいえ、そのイタズラは1943年10月に、とある兵士により彫られたものです。時効が成立していると、広い心でお考えいただけると助かります。戦国武将が敵を刀で斬るって、現在の価値観からすればとんでもないことですが、当時はまぁ仕方がないことだったわけで・・・。ちょっと苦しいですが、過酷な環境下で訓練を受け、戦場に散る覚悟をもった名もなき兵士の心境を思い、大目にみてあげてください。

さておき、看板によると、幹に彫り込まれた落書きには
「昭和十八年十月」「砲隊」などがあるようです。
モッコクの周囲には竹垣がめぐらされており、幹に近づいてしげしげとイタズラ書きを見ることができませんでした。腕を伸ばして写真をとったのですが、私が確認できたのは
「佐野」と大きく書かれた文字のみでした。佐野さんなのか、「佐倉野戦部隊」などの呼称の略語なのか、確たるところはわかりません。
ミッドウェー海戦が1942年6月5日で、ここから日本軍は各地で敗走を重ねていきます。
1943年10月に、佐倉歩兵第57連隊に所属し、この地にいた人物であるということは、この後どこでどんな戦闘に参加したのでしょうか。手持ちにめぼしい書物がないので、wikiで調べると、1944年当連隊第三大隊がグアムに派遣され、8月彼の地で玉砕しております。
同年11月、フィリピンレイテ島オルモックに上陸した連隊の主力部隊は、12月には同島でほぼ全滅しております。
いずれにしても、この人物が大戦を生き抜いて終戦を迎えられた可能性はほとんどないようです。

江戸時代のどこかで、本丸の庭木として植えられたモッコクが、大戦のさ中にとある兵士の生きた証を刻まれて、今、万を数える木の葉を風にゆらせています。
佐倉城址公園に来たら、ぜひこのモッコクを眺めてみてください。

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2014年

7月

01日

佐倉城址公園。佐倉城→佐倉連隊→現在をつなぐ「夫婦モッコク」1

■はじめに

歴博の南側にひろがる佐倉城址公園。この地は、江戸時代の初期から第二次世界大戦の終了まで、日本の戦略をささえる要衝地でありつづけました。
古くは、代々江戸幕府の幕閣が居城とし、明治以降は二つの大きな大戦を戦い抜く連隊の練兵所として。
注意して歩くと、それらの歴史が浮かび上がってくるような遺構をたくさん見つけることができます。また、昨今では佐倉市や歴博の努力により、少しずつ説明用看板の整理もすすみ、それらの遺構について多角的な理解ができるようになってきました。
特に、当時を偲ばせる写真や図版や古地図が説明文とあわせて確認できる看板は、とてもありがたいですね。私を含む専門家ではない来園者からすると、やはりそういうビジュアルが理解を深めるためには不可欠です。人間が創造した建造物は、時代を経れば当然にその場になくなってしまうものなので、そのモノズバリを見ることはできないわけですから。
そんな意味で、長い時間その場に生き続けた樹木というのは、その気になって見れば一瞬で私たちを「当時」にタイムスリップさせてくれる貴重な存在です。

■夫婦モッコクのなりたち

今回とりあげるのは、昭和27年に千葉県の天然記念物として指定された「夫婦モッコク」です。場所としては、佐倉城の本丸跡を正面にみて右手にあります。
二つのモッコクの大木が寄り添うように立っていることからこの名が付きました。県と市の教育委員会が建てた説明用看板によると、樹高11.6メートル、目通り幹囲2.6メートルで、モッコクとしては巨木だそうです。見上げるともう少し高いような気がしますが、この看板が建てられたのが昭和57年ですから、さもありなんというところです。
説明用看板はさらにこう続けます。
<以下、看板抜粋文>
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年(1611)から元和三年(1617)まで7年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭木を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和五十七年二月十一日
<以上、看板抜粋文>
この看板の文では、このモックコが土井利勝築城当時の庭木であった可能性を示唆しているようにも読めます。そうなると、樹齢400年?神に近いですね。
ちなみに、松林寺の古木については、かつて私が書いた記事に写真が掲出されてますので、興味のある方はこちらを確認ください。

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2014年

6月

26日

本佐倉城。「セッテイ山」の謎

本佐倉城跡には、エリアごとにいろいろな名前がつけられています。
「城山」や「物見跡」なんていうのは、だいたいなにがあったのかわかりますが「東光寺ビョウ」や「セッテイ山」なんて言われても、ちょっとなんだかわかりません(サンドイッチマン風)。
ちなみに、「東光寺ビョウ」は、現在でもなにがあった場所なのか不明だとのこと。「東光寺」というからには東光寺という名の寺があったのだと思いますが、現在建物がたっていた遺構らしきものは発見されていないのだとか。じゃあなぜ「東光寺ビョウ」と呼ばれているかというと、江戸時代に書かれた古地図にそう書かれているからで、その他奇妙な名前もその古地図に準拠しているようです。
さて今回は、その中でも際立って奇妙な名前である「セッテイ山」について、紹介いたします。

地図ではわかりにくいかもしれませんが、この「セッテイ山」アクセスが非常に不便です。
城を形成する舌状台地の西側に位置するこの山は、四方をかなり深い堀に囲われています。
今歩くと、誰かの訪いを拒むかのような、もしくは、誰かが外に逃げ出すのを阻むような意図を感じます。
「セッテイ」についてはいろいろな解釈がなりたつようですが、もっともメジャーなものが「接待」につながる、というもの。接待の相手は、北条氏や古河公方からの使者など、いわゆる賓客が想定されます。
しかし、接待の場ならもう少し気が利いた立地でもよさそうなものです。接待の現場に着くころには、賓客もすっかり疲れてしまってます。夏なら汗びっしょりです。
次に想像されるのが、捕虜収容所説です。佐倉千葉氏は、それなりに沢山の戦に参戦していますし、戦国大名に成りきれなかった「弱さ」故に、常に隣国との緊張関係があり、捕虜の交換なども頻繁に行われていた可能性があります。
そこで、「幽閉所」をして「セッテイ山」と呼んだ、という説です。一種のブラックユーモアですね。これは、ちょっと有力じゃないかと個人的には思います。
ちなみに、「余湖くんのお城のページ」というサイトに、この「セッテイ山」について、面白い考察が記載されていますので紹介いたします。

<以下「余湖くんのお城のページ」より抜粋。サイトはこちら>
「セッテイ」というのは何を表しているのであろうか。「接待」なのか。それとも、台地基部との「接続」に由来する言葉の一種なのか? 越後ノ丸殿は見張りが特に必要な所ということで「斥偵」ではないかという想像をしている。これもありそうだ。

また「摂提」という言葉もある。これは、北斗七星の柄の部分の三ツ星を総称したもので、千葉氏は妙見信仰であり、もしかすると関連があるかもしれない。本城地区全体を北斗七星の柄杓に見立てれば、セッテイ山はまさに柄の部分といえるだろう。また摂提には「木星が寅の方位にあること、もしくは寅の方角」という意味もあり、方位的にはだいたいあっているようである。しかし、どれが当たっているのか現時点では不明としか言えない。
<以上抜粋文>
なるほど、興味深いですね。語源は、必ずしも接待ではないかもしれません。

とまぁこんな次第。山の名前ひとつとっても、実にいろいろとあって面白いです。
この記事を読んだなら、ぜひ一度「セッテイ山」に行ってみてください。いろいろと感じることがあると思いますので。

最後になりますが、ちょっと紹介。
トップページからすらもリンクがたどりずらいのがタマニキズですが、酒々井町教育委員会のサイトには各種マップやプリント用パンフレットが充実していてすばらしいです。
ここからならダイレクトアクセスできますので、興味のある方はクリック!
これから本佐倉城跡に行ってみようという人はもちろん、すでに数回行ったよ、なんて人も、このサイトにある資料を丹念に読み込んでみると、思わぬ発見があるかもしれません。

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2014年

5月

28日

龍神伝説の地、龍尾寺について

今、「佐倉市域の歴史と伝説」という書籍を執筆中です。
「佐倉・城下町400年記念」の事業の一環で、佐倉市や酒々井町の教育委員会の方々他、関連諸機関に大変な協力をいただいて作業をすすめております。
本書について、出版日やら何やらが決まりましたら、本ブログで紹介させていただきます。

さて、その書籍の取材で、龍尾寺に行って参りました。
印旛沼には、実にたくさんの伝説があるのですが、その中でも特に有名な話の一つに「印旛沼龍神伝説」があります。

奈良時代におきた大干ばつで、印旛沼周辺の農民が餓死者を出すほどの事態となった折、その窮状を見かねた印旛沼の龍神が天に上り雨を降らせます。そのおかけで、周辺の農民たちは救われるのですが、天帝の許しなく雨を降らせた龍神は天帝の怒りをかい、体を三つに切断されて外界に投げ落とされます。
無惨に切られた龍神の亡骸を見た村人たちは嘆き悲しみ、龍神の頭が落ちた地に龍角寺、胴体が落ちた地に龍腹寺、尾が落ちた地に龍尾寺を建立して、永く龍神を祀ったのでした。

という伝説です。
さて、上にあげたそれぞれの寺は、どれも佐倉市にはないのですが、いわゆる下総の地の中という意味では当時の行政区内です。しかし、佐倉からみると、尾が落ちた地だけやけに遠い・・・。
というわけで、取材に行くのを先延ばししていたのではありますが、兄が同行してくれるということで思い切って行ってきました。旅は道連れ世は情けです。

 

千葉県匝瑳市大寺1856

佐倉からは、とにかくひたすら296号線を東にひた走ること1時間以上、場所はとてもわかりやすいところにありました。
奈良時代といえば、ご存知「なんと(710年)おおきな平城京」ということで、奈良に都があった710年から794年までの八十年あまりですから、時代区分としてはとても短い期間です。
伝説によると、龍角寺だけは「龍神の死」より前に、すでに龍閣寺という名前で彼の地(千葉県印旛郡栄町龍角寺239)にあったとのことです。よって、あくまで伝説では、龍尾寺と龍腹寺は「龍神の死」と、ほぼ時を同じくして建立されたことになります。
さて、以下の表は、これら3つの寺の情報をまとめたものです。

  宗派 所在地 成立年代
龍角寺 天台宗 印旛郡栄町龍角寺 不明
龍腹寺 天台宗 印西市龍腹寺 不明
龍尾寺 真言宗 匝瑳市大寺 不明

3つの寺の成立年代を「不明」としたのは、少なくとも今の時点で、頼れるまっとうな書物が手元にないためです。ネットで出回っている情報の孫引きは、やはり危険ですので。
ただ、こういう表を詳細に落としこんで、周辺の文化や時代背景や為政者の性質などを地道に調べていくと、なぜこの三寺が龍神伝説の聖地として「選ばれたのか」の仮説がたてられるんだろうと思います。
そんなわけで、しっかりした書物で情報の整理ができたら、上記の表に少しずついろいろな情報を付加していこうと思います。

今日のところは、取材した龍尾寺の写真をざっとアップしますのでご覧ください。
なお、「佐倉市域の歴史と伝説」には、ちょっと詳しくこのあたりの伝説について書きますのでお楽しみに、ということで。

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2014年

4月

09日

海隣寺と佐倉の千葉一族 3

海隣寺の入り口。市役所から坂をちょっと上ったところに、青地に白抜きの看板が出ています。
海隣寺の入り口。市役所から坂をちょっと上ったところに、青地に白抜きの看板が出ています。
奥まったところにあるのが海隣寺です。参道の両脇には民家が並んでいます。
奥まったところにあるのが海隣寺です。参道の両脇には民家が並んでいます。
右手に見えるのが市役所の建物です。
右手に見えるのが市役所の建物です。
正面写真。
正面写真。
なんと、この山号寺号の書かれた木札は、どういういきさつか「第三十六代 総理大臣 平沼騏一郎」の揮毫でした。これは、すごいことです。すごい人物すぎて、私には書くことができません。興味のある方は、ウィキペディアなどでどうぞ。
なんと、この山号寺号の書かれた木札は、どういういきさつか「第三十六代 総理大臣 平沼騏一郎」の揮毫でした。これは、すごいことです。すごい人物すぎて、私には書くことができません。興味のある方は、ウィキペディアなどでどうぞ。
平沼氏、書。
平沼氏、書。
寺の本堂にかかる額。やはり、平沼氏の手による書。達筆。質実剛健。迷いなし。といった風情です
寺の本堂にかかる額。やはり、平沼氏の手による書。達筆。質実剛健。迷いなし。といった風情です
千葉氏の変わり家紋が天水よけに使われています。
千葉氏の変わり家紋が天水よけに使われています。
海隣寺の縁起が書かれた掲示板。
海隣寺の縁起が書かれた掲示板。
境内の中にある墓地横の小道。この先小さな出口を右に曲がってちょっとあるくと、慰霊塔群が見えてきます。この日は、とにかく桜がきれいでした。
境内の中にある墓地横の小道。この先小さな出口を右に曲がってちょっとあるくと、慰霊塔群が見えてきます。この日は、とにかく桜がきれいでした。
境内の中にあった熊野神社。小さなお堂です。
境内の中にあった熊野神社。小さなお堂です。
市役所の中の掲示板。このあたりに、縄文→弥生→古墳時代→奈良・平安期の住居跡があったとか。時代ごとにまんべんなく人がいたということです。住みやすかったんでしょうね。
市役所の中の掲示板。このあたりに、縄文→弥生→古墳時代→奈良・平安期の住居跡があったとか。時代ごとにまんべんなく人がいたということです。住みやすかったんでしょうね。
いよいよ「海隣寺千葉家供養塔」です。
いよいよ「海隣寺千葉家供養塔」です。

とてもすごいのでたくさん写真をとってしまいました。2014年春のスナップショットにも、おそらく何らかの意味があるだろうということで、とった写真全部のせておきます。ご興味があれば下の写真をクリックし、大きな写真をご確認ください。

それから、案内文が書かれた柱にあった文章を引用しておきます。今、現地でみても、ほとんど読めません。インクが日焼けして白く濁って、背景の白さと同化しちゃってるんですね。

【以下引用文】

海隣寺千葉家供養塔

千葉山海隣寺はもともと千葉氏の菩提寺として千葉郡馬加(現千葉市幕張)に創建され、現在する(ママ)一九基のうち六基は千葉氏一族の昌胤・利胤・親胤・胤富・邦胤・重胤のものと伝えられている。

【以上引用文】

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2014年

4月

08日

海隣寺と佐倉の千葉一族 2

◆関東の戦国時代の開始とともに、海隣寺は酒々井へ、そして現在地へ

前回の続きです。

関東の戦国時代の開始とされる享徳の乱の結果、お家の分裂により馬加系千葉氏が本佐倉城を居城とします。そのあたりの経緯は、こちらのページでPDFをダウンロードしてご一読いただければと思いますが、その折、幕張から本佐倉城周辺のどこかに海隣寺が移転されました。
この事業は、馬加康胤の正当な後継者をアピールしたい岩橋輔胤存命中の出来事だったのではないかと思います。もっといえば、本佐倉城が築城された1480年前後、というのが妥当かと思っています。
さて、この後時代は進み佐倉千葉一族の衰退期の頭領である千葉親胤の時代、今の本佐倉城とは別に、現在の佐倉城址公園(歴博に隣接している巨大な公園です)のあたりに、別途城を築城しようという動きがありました。
海隣寺にあった案内板には、この親胤の時代にあった築城(計画?)にあわせて、海隣寺は現在の地に移転してきた、という説明があります。
この親胤という頭領は、暗殺により若くして世を去っております。その結果、新城築城については計画段階で終わったか、もしくは中途半端なところで中断したかされた、というのが現在の定説のようです。しかし、その前に海隣寺だけは現在の地に移転された、ということですね。戦国末期の千葉氏は、まさに混乱期に入っておりまして、当時の状況がわかる資料がほとんど残っていないとのことで、たぶんこのあたりの詳しい事情はこの先もわからないかもしれません。
さて、この海隣寺にはたくさんの佐倉千葉氏の慰霊塔がありますが、その中に佐倉千葉氏の歴代惣領である、昌胤、利胤、親胤、胤富、邦胤、重胤のものがある、という情報が、現地の案内に書かれていました。実は、これらの宝篋印塔や五輪塔を探して、ずいぶん境内の中をうろうろしてしまいました。
さんざん探した後、境内の奥にあった小さな出口から外に出て右、市役所方面に進む狭い道を行くと、左手に小ぶりの墓地があって、その奥にまさに「ひっそりと」彼らの慰霊塔が横一列に並んでいます。遠目に見ると、銚子砂岩独特の黄色い色彩を放つ慰霊塔群は、とても綺麗で新しいものに見え、「慰霊塔のイミテーションか?」と疑ったくらいです。
この記事を読んで海隣寺に行かれる方がもしいらっしゃるようであれば、「千葉氏の慰霊塔郡は市役所に隣接している墓地にある」という情報だけでも覚えて行ってください。これらの塔を見ることができれば、おそらく感動するはずです。
次のページでは、いよいよ写真を紹介します。ここまで、マニアックな内容にお付き合いくださってありがとうございました。

>>海隣寺と佐倉の千葉一族 3写真編

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2014年

4月

08日

海隣寺と佐倉の千葉一族 1

◆はじめに

海なんて、見えない佐倉に海隣寺。
いきなり七五調で失礼しました。かつては銚子から続く巨大な内海の一部であった印旛沼ですから、まあ海といえなくはないですが、このあたりは当時でもほとんど淡水だったわけですし、海と呼ぶにはちょっと無理があります。
今、私達が見る海隣寺は、佐倉市役所正面向かって左側にあります。しかし、大本の海隣寺は、今の幕張のあたりにあったということを知る人は、あまりいないのではないでしょうか。幕張ならば海に面していますから、海隣寺なんて名前の寺があっても納得です。
今回は、海隣寺が建立された言い伝えと、このお寺が馬加系千葉一族とともに佐倉に移ってきた経緯について紹介した後、海隣寺の写真を掲載します。
内容がちょっと細かすぎですので、マニアックな部分は飛ばして写真を見ていただければ十分かもしれません。

◆鎌倉幕府成立直後に、千葉常胤によって建立されたとする伝説

府馬清が昭和五十九年に著した本に『千葉氏とその一族の興亡 星の巻』というものがあります。
室町成立時の活躍から滅亡までの千葉一族の歴史を、読みやすい散文調で著した珍しい本で、内容も専門的になりすぎず、歴史書が苦手な方でも楽しんで読めるのではないかと思います。ただし、やはり古い本ですので、現在の定説とは若干食い違う部分もある(たとえば、本佐倉城を築城したのが馬加康胤としていたりします)ために、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。
そんな難点を考慮に入れても、機会があれば是非ご一読いただきたいおすすめの本です。
さて、この本の中に、海隣寺の縁起が紹介されていますので、その部分を引用します。

【以下引用文】
海隣寺は文治二年(1186)十月、千葉常胤が初め千葉郡馬加村(千葉市馬加)に建てたもの。常胤が一族をつれて、海辺で月を見ていたところ、月光に輝く阿弥陀仏の金像を発見したので、この寺を建てて、この金像を安置した、という。初め真言宗だったが、千葉貞胤が時宗に改宗し、貞胤の子氏胤のとき、堂宇を佐倉に移した。現在、佐倉市役所の隣にあるが、ほんの小さな寺で、全盛期の面影はない。もと、この寺の境内だったと思われる、市役所の敷地内に、千葉家の墓碑が並んでいる。
さて、貞胤は観応二年(1351)正月一日、京都で他界した。六十一歳であった。貞胤の木像が、常胤の木像とともに、海隣寺に安置されている、という。
【以上引用文】

「月光に輝く阿弥陀仏の金像」、ぜひ一度でいいからその姿を観たいと思うのですが、現存してはいないのでしょうね。海隣寺の掲示板には、この阿弥陀仏を「海上月越如来」と名付けたとあります。そんなすばらしい名前の阿弥陀仏なら、ますますその尊顔を拝見したいと思うのが人情ですが、たぶん開帳するようなことはないのでしょう。残念です。
しかし、貞胤と常胤の木像ならばあるのかもしれません。チャンスがあれば、ぜひ拝見したいと思っております。
なお、上の引用文の「氏胤の時代に堂宇を佐倉に移した」とするのは、おそらく間違いです。馬加系の千葉一族が佐倉と関係しはじめるのは、ギリギリでも馬加康胤からで、普通に考えると康胤の跡を継いだ岩橋輔胤の時代と考えるのが妥当だと思われます。
いずれにしても、海隣寺の移動の経緯は、現地の掲示板他、いろいろな資料を総合して考えると
幕張→本佐倉城周辺のどこか→現在地(佐倉市役所の隣)
という道筋になりそうです。

>>海隣寺と佐倉の千葉一族 2

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2014年

4月

05日

ご来場ありがとうございました。

本日はご来場いただきありがとうございました。

今日の講演は、募集期間が25日間しかなく、広報も十分できない中ではございますが、30名以上の方にお越しいただきました。

いただきましたアンケートについて、ご要望やご意見などいくつか紹介させていただきます。

 

【ご要望】

志津城(竹若丸とお辰)について講演してほしい。

【回答】

ありがとうございます。臼井城をめぐるこの事件は、悲劇の物語としても、また臼井城奪還劇までしっかりとできあがっている筋も含め、是非とりあげさせていただこうと思っている素材です。内容ができ次第また広報させていただきます。

 

【ご意見】

古河公方のことがよくわかり、嬉しく思いました。

【回答】

ありがとうございます。佐倉の千葉一族を語るとき、古河公方の去就は切っても切れない話となります。ただ、このあたりの話はどうしても込み入ってしまうため、どこまで話すかがたいへん難しく、頭の痛い部分であるのも事実です。こういったお褒めの言葉をいただくと、心から嬉しく思います。

 

【ご要望】

千葉一族と麻賀多神社の関係について知りたい。

【回答】

そこは、ノーマークでした。千葉一族は、代々妙見様を信仰しており、本佐倉城にも城山の隣に妙見宮を設けるなどしておりますが、その折印旛沼周辺にあった麻賀多神社がどのような扱いを受けていたのかは、正直いまのところまったく知見がございません。なにかわかりましたら、ブログのほうで少しずつ紹介しつつ、今後の講演にも活かしていきたいと思います。

 

【ご要望】

今後継続する講演会について、広報佐倉に掲出してほしい。

【回答】

ありがとうございます。今回は、諸事情で広報が遅れ募集期間が一ヶ月ない状態でしたので、ご迷惑をおかけしました。講演の3ヶ月まえに佐倉市に申請すれば、400周年記念事業ということもありますので必ず広報佐倉に掲出していただけるそうですので、今後は極力段取り良く告知していきたいと思っております。

 

【ご意見】

講演をする人が、先生や歴史家ではないので聞きやすかった。

【回答】

ありがとうございます。ただ、反省点としては、まだまだ固いのではないかと思います。もう少しエンターテイメント性を出してもいいかと思っておりますが、いかがでしょうか。今後は、中学生でも楽しく聴けるような演目を増やして、学校向けにも展開したいと考えております。何かご意見があればぜひおうかがいしたいと思っておりますので、お気軽にお問い合わせください。

 

以上、ご来場いただいたお礼含め、いただいたご意見に対する回答とさせていただきます。

今後とも、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

 

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2014年

3月

26日

上杉謙信の野戦陣地跡、臼井の一夜城公園について

◆はじめに

1566年、臼井城城主が臼井氏から原氏に変わってほんの数年後、上杉謙信が大軍を率いて臼井城に迫りました。過去、いくどもの激しい籠城戦を経験した臼井城の最期の大戦(おおいくさ)であるこの戦いは、フィナーレにふさわしく臼井城籠城側の勝利で幕を閉じます。
今回は、上杉謙信が新潟の地からはるばる臼井に押し寄せてきた理由を簡単に紹介させていただきつつ、そのとき謙信の軍勢が陣取った野戦陣地跡地の写真を掲載いたします。

◆戦国末期の情勢と謙信来襲

16世紀後半の関東は、小田原の北条、越後の上杉、甲斐の武田のいずれかの武将に遠くない将来飲み込まれるだろうと言われていました。とくに房総半島だけみると、北条対上杉の勢力争いが激化の一途をたどったのが、この時期の姿でした。
1563年と64年、二度にわたって北条派対上杉派の合戦が国府台の地で行われます。第二次国府台合戦と呼ばれるこの戦いは、上杉謙信が雪のため越後で足止めをくっている時期に一気に決戦に持ち込んだ北条が完勝したのです。
謙信としては、その状況を黙ってみているわけにはいきませんでした。このまま捨て置けば、房総半島はオセロゲームのように一気に北条の色一色に染まってしまうおそれがあります。
そこで、謙信は遠征の準備に一年をかけ、満を持して1566年の正月開けに行動を起こしました。
謙信の行軍は、毘沙門天のごとく迅速に上州を抜け、臼井にたどり着きます。
臼井城は、下総の地を治める千葉一族の精鋭部隊が常駐する天然の要害です。謙信ほどの名将にかかれば、臼井城を落とせば千葉一族の居城本佐倉城など「造作もなく」落ちる城に見えたことでしょう。立地の面では本佐倉城も臼井城以上に恵まれていましたが、城に居る兵力は臼井城とは比べるべくもなく貧弱なものだったのです。
さて、防衛側の臼井城主原氏と、本佐倉城の主にして下総の守護である千葉胤冨は、この戦いを総力戦と位置づけ余念なく準備に励みました。堀を整備し、兵糧米を蓄え、沼を隔てた臼井城の搦め手ともいうべき師戸城にもいざというときの船を多数用意させるなど、入念に備えを固めたことと思います。
そして、ついに同年3月、謙信の軍勢が臼井の城下町まであと一歩の距離に陣取ったのであります。
この時の戦の状況については、臼井城の記事を書くときに詳述しますが、この籠城戦は一ヶ月以上続いたようです。最期には、本丸まで「堀一重」のところまで謙信の軍勢が迫るほどの激戦であったそうです。
結果、臼井城からの決死の部隊が攻め手の上杉勢に襲いかかり、見事謙信を退却させました。
このとき、謙信は将軍より上洛を督促される書状を受け取っていたとされ、あとひと圧しをすることができないままに臼井の地を去った可能性を言及している書物もあります。
いずれにしても、臼井城はこの激戦をなんとかくぐり抜けました。
この戦の結果が北条派である原、千葉側の勝利に終わったことで、関東の諸将はより一層北条に傾いていきました。
1566年の、越後上杉撃退という戦国末期に咲いた徒花のような出来事でした。この年からわずか23年後の1590年、臼井城も本佐倉城も戦一つせずに落城してしまうことを、このときは誰も知らなかったのです(あたりまえですが)。

◆一夜城公園

石碑表面。
石碑表面。

謙信の軍勢が陣地を設営した場所が、この「一夜城公園」です。
この場所は、臼井城から見て南側に位置し、今でもゆるい勾配が北東向きに下っています。
つまり、もし仮に臼井城から原の軍勢が討って出てきた場合でも、謙信の陣は勾配の上の側で迎え撃つことができるため、有利です。
そんな地勢と写真にある石碑を見る以外に、この公園で見るべきものはありません。閑静な住宅街にどこにでもある公園、といった風情です。また、この公園には駐車場もないため、車で来る場合は注意が必要です。
ここから臼井城跡までは2km弱といったところですから、天気が良い日などは臼井城跡に車を停めて、ここまで歩いてみてもいいかもしれません。歩くのが好きな方限定ではありますが、上杉勢が攻撃の際に歩いた道のりを踏みしめるのも、なかなかオツかもしれません。
千葉県佐倉市王子台3丁目13

道路側から見た石碑。謙信が陣を構えた経緯などが平易な文章で紹介されております。
道路側から見た石碑。謙信が陣を構えた経緯などが平易な文章で紹介されております。
こんな感じです。字は、ぎりぎり読めないでしょうか。すみません。
こんな感じです。字は、ぎりぎり読めないでしょうか。すみません。
公園入口。その名も、一夜城公園。
公園入口。その名も、一夜城公園。
公園は、いたって普通の公園です。
公園は、いたって普通の公園です。
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2014年

3月

24日

臼井城主の交代劇と城主たちの菩提寺(円応寺と宗徳寺)

◆臼井城は佐倉の激戦地

臼井城は、佐倉にあって唯一、戦国の激戦を多数経験した城と言えます。
江戸時代の佐倉城はもちろん、戦国時代に成立した本佐倉城でさえ、戦禍に見舞われたことはないのです。
一方臼井城は、太田道灌やら上杉謙信やら、里見の家来筋の正木氏やら、関東の有名武将たちから攻められ、激しい籠城戦を経験しています。
理由は、当時下総を治めていた千葉一族の有力な敵のほとんどが、佐倉からみて西側にいたことに由来します。そのため、千葉一族の本拠地である本佐倉城を落とすには、その西側にある臼井城を無力化しなければ先に進めなかったのです。事実、戦国時代も半ばを過ぎると、当時臼井城城主でもあった原氏の強大な戦力を端的に表現した「千葉は百騎、原は千騎」という標語も出まわるくらい、原氏の軍事力は宗家の千葉氏を凌駕していたわけですから、千葉氏の本拠地本佐倉城を攻めるには、臼井城を陥落させることは必須条件であったのです。
もちろん、本佐倉城からみて南側にも千葉氏の宿敵里見氏がおりましたが、南から攻め上がるには小弓城を居城としていた小弓原氏が睨みを効かせ、そのほかにも佐倉に辿り着くまでに中小規模の城がひしめいておりましたのでおいそれとはできない。加えて、里見氏は佐倉に大軍を差し向けた場合、後ろから小田原北条氏が襲いかかってくる可能性が高かったために安易に動けなかったという事情もあります。そんなわけで、里見氏が下総で合戦するときは、小田原北条氏も大軍を動かしている時期に限定されるわけです。たとえば、国府台合戦とか。
一方西側は千葉と敵対関係にあった太田氏が武蔵の地(今の東京)を治めていたため、臼井城までは千葉氏側の有力武将の反撃に遭遇する可能性が少なかったわけです。

◆臼井城城主の交代劇

臼井城主は、臼井氏の時代と原氏の時代とに分かれます。
表にするとこうなります。
1114年から1560年頃→臼井氏
1560年頃から1590年→原氏
上の表のとおり、原氏が城主を務めていた時代というのは戦国末期の30年のみ。それ以前は、何度かの浮沈はあったものの、長らく臼井氏により治められていた城です。
臼井氏と原氏は、ともに千葉氏の家臣筋にあたります。城主の交代劇については、伝説を含め興味深い話がいくつか残されています。
千葉氏関連の読み物として、私の好きな書物に「千葉氏とその一族の興亡」というものがあります。府馬清の著作で、史実と伝承とをとても読みやすい平易な文章で綴っていて、入門書としては最適だと思います。ただし、昭和59年の著作物で今日では絶版となっているため、読みたいときは図書館で借りなければなりません。また、現在の定説と照らすと時々「?」と思われる記述があるため、すべてを鵜呑みにすることはできません。
ですが、それらの状況を考えあわせても、とても面白い本ですのでおすすめです。
この本の「星の巻」に、臼井城での城主交代劇の記述があるので要旨を紹介いたします。

1557年、臼井景胤が亡くなる間際、その子久胤は14歳でした。そこで臼井景胤は、親戚である小弓城主原胤貞に、我が子と臼井城を守ってほしいと遺言します。
臼井景胤の死後、原胤貞は臼井に来ると、14歳の臼井久胤を外の屋敷に追いやって、自分が本丸に入り執務しました。
原胤貞は、家臣たちの俸禄を上げ、百姓たちから徴収する税を下げることで、臼井での人気を高め地盤を固めます。このころ、原胤貞は「臼井、小弓両城主」と称したそうです(出典不明)。
原胤貞にないがしろにされた臼井久胤は、1561年の正木大膳の臼井城攻めの折臼井城を脱出し、今の茨城県結城市にあった結城城に身を寄せました。

という次第。当時としては、とてもありそうな出来事ではあります。
さて、前置きが長くなりましたが、その臼井氏の菩提寺が円応寺で、その後臼井城に来た原氏が創建した寺が宗徳寺です。

今後も、私が書くいろいろな記事にこれらの寺のことは出てくると思うのですが、今回は主に撮影した写真をアップする、くらいな意味合いのコンテンツになります。

◆円応寺、宗徳寺について簡単に

さて、いよいよ円応寺、宗徳寺について。特に円応寺には、臼井城主の命を救った忠臣「岩戸胤安」の墓や、当時のものと思われる銚子砂岩でできた五輪塔など、とにかく文章をもって紹介したいものがたくさんあるのですが、それはまた追ってということで。
今回は、それぞれのお寺について佐倉市の文化課が作成している文化財のページの文章を転載させていただきます。「それ、意味あんのかよ?」とか言われるかもしれませんが、私がとった写真をみつつ、市によって推敲を重ねられた紹介文を読むことができるという点に価値を見出してくださる方がいるのでは、と勝手に考えております。
それぞれのお寺にある個別の文化財やら何やらの紹介は、稿を改めて紹介させていただきますので乞うご期待です。

円応寺(えんのうじ)

瑞湖山円応寺は、釈迦牟尼仏を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院です。円応寺所蔵の「円応寺草創記」によれば、歴応元年(延元3年、1338)に臼井氏中興の祖である臼井興胤<うすい・おきたね>により創建されたとされます。開山は竹若丸(後の興胤)を養育した鎌倉建長寺の仏国禅師とならび、陰で臼井家の再興を支えた仏真禅師で、師の恩に報いたものです。以来、臼井氏の菩提寺として崇敬されてきました。
寺領は広く風光明媚で知られ、臼井城跡とともに「城嶺夕照」として臼井八景の一つに数えられました。
文禄2年(1593)に酒井家次が臼井に居城のとき城とともに消失したものを後に再建したものです。

※以上、文章は佐倉市公式サイトより抜粋。

※下の写真をクリックしてください。大きく表示されます。

宗徳寺(そうとくじ)

長谷山宗徳寺は、般若船観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院です。臼井氏の後に臼井城主となった原氏の菩提寺で、応永10年(1403)に小弓城主原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建されました。元亀元年(1570)に原胤栄<はら・たねよし>が臼井城主となって以後のある時期、臼井城の周囲に配置されていた砦の一つである手繰砦の麓、長谷津(南臼井台)に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併しました。
宗徳寺の「権現水」という清水は、昔この地に徳川家康が狩に訪れた際この水を賞味し、寺領10石を賜ったことに由来する名であると伝えられます。

※以上、文章は佐倉市公式サイトより抜粋。

※下の写真をクリックしてください。大きく表示されます。

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2014年

3月

19日

城址公園。歩兵第五十七連隊の便所跡と、当時の軍隊編成

◆はじめに

城址公園を歩いていると、江戸時代の佐倉城ゆかりの建造物から昭和初期の戦争遺跡まで実にいろいろなものに出会います。
今回は、歩兵第五十七連隊当時の「便所跡」について紹介しつつ、昔から漠然と「どうなっていたんだろう」と思っていた第二次世界大戦当時の軍隊編成について書きたいと思います。

◆そもそも「連隊」って何?

佐倉歩兵第五十七連隊。私を含む地元の人たちは、この名前を当たり前のように使います。

また、軍隊のことを書いている小説などを見ると「兵隊さんのまとまり」についてたくさんの呼び方が出てきます。
軍団、師団、旅団、連隊などなど。たとえば「その日、★★島で行われた戦闘にて、我が軍は一個師団がほぼ全滅した」なんて具合です。「ずいぶんたくさん亡くなったんだろうな」とは思うのですが、そもそも師団ってなんだっけ?などと思いながら先を読んでいました。
そこで、いろいろとあたってみたところ、こちらのサイトの図が最もわかりやすかったので引用/再構成させていただきました。

上記のとおり、軍が戦場に展開するさいの単位が「師団」です。師団というまとまりがなければ、通常はなにかの機能が「欠けた」いびつなチームとなってしまうため、戦場へは送り出されなかったようです。しかし、大戦も末期になってくると、送り出せる兵隊さんの数や機能集団そのものが集まらなかったために、このような「きっちりした」師団編成がされないままに戦場へ駆り出されることも多かったとのこと。ちなみに、師団の成員数ですが、規模によりまちまち、というのが正解のようです。ざっくり、1万から3万人くらいだという説明が多いです。
さて、気になる「歩兵連隊」というのはどういった単位かというと、図を見ていただければわかるとおり、師団の中にある二つの歩兵旅団を構成する下部単位であることがわかります。つまり、1つの歩兵旅団は2つの歩兵連隊により構成される、というわけです。
1つの連隊の構成員数はおおむね1,000から3,000人程度で、だいたい各県ごとに設置されたようです。
つまり、千葉県で徴兵された人で「歩兵」に振り分けられたら、およそこの佐倉歩兵五十七連隊に配属され、ここで厳しく練兵された後、1,000から3,000人の単位で戦場に駆り出されていった、ということになるのでしょうか。
ちなみに、私の血縁者の一人もここで訓練を受けた後、1937年に中国へ出兵し、盧溝橋事件で戦死されました。当時はまだ戦死者が少なかったということもあり、千葉県をあげて葬儀が執り行われたという話を聞いております。その後、二次大戦が泥沼化し、太平洋戦争が勃発して以降は、戦死者の発生は日常化していくことになります。

◆五十七連隊の兵舎のその後

1945年8月、日本は敗戦の日を迎えました。その後、日本の軍隊は解散し、佐倉五十七連隊も軍事施設としての苛烈な役割を終え、建物だけが残りました。
私の母は、佐倉市で終戦を迎えております。そして、戦後の厳しい時代を生き抜きました。
その母が中学生だったころ、なんと中学校の校舎として、兵舎の施設を利用していたそうです。
薄暗い校舎に寄り添うように建つ便所の話は、子供の頃母から何度も聞かされました。
「兵舎のお便所だったから、とにかくたくさんあってね。あんまり奥まで続いていたから、全部は使わずに途中から仕切られていたんだよ」
ただでさえ暗い便所の奥、その仕切の先の闇は本当に深く怖かったと言っていました。

母が使っていた便所がどこにあったのかはわかりませんが、この便所もそんな「暗く深い闇をたたえた便所」だったことでしょう。昔のこの地は、今のように整備された明るい場所ではありませんでしたから。私も、病院として使われていたころのこのあたりを薄らぼんやりと覚えています。
今、晴れた日にこの場所を訪れると、なんというか、「木漏れ日の中穏やかな時間が流れている便所跡」という印象をもちます。連隊という暗い過去は、とりあえず遠くに置いてきた風情さえたたえています。
しかしながら、こういう日常的な生活の営みに利用されていたものに出会ったときのほうが、私はなぜか戦争で死んでいった方たちの存在を身近に感じるのです。当時の銃や、千本針や赤紙といった「戦争遺物」にももちろん心を動かされますが、こういう「戦争の中の日常使い遺物」をじっとみていると、兵隊さんたちの肩の抜けた冗談の言い合いや笑い声が聞こえてくるような気がして、静かな気持ちになるのです。

この便所の奥に、大人二人でようやく手を渡せるほどの欅(けやき)の大木が生えていました。便所の床から突き抜けていたわけでもないでしょうから、戦後この場が廃墟となって以降に芽吹いた欅のはずです。
戦争は、ずいぶん遠い昔になったのだと改めて思いました。この欅が、この先もずっとこの地で生きていける日本であってほしいと、心から思います。

欅の大木
60年程度で、こんなに太くなるのですね。
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2014年

3月

18日

佐倉城址公園の馬出し空濠と椎木門(しいのきもん)

◆はじめに

歴史民俗博物館と城址公園については、一回ではとても書ききれないほどの規模があります。というわけで、このブログでは見所ごとに個別ページをたてて書くことにしました。不定期ですが、コツコツ更新していきます。

今回は歴博の建物からみると南側に位置する「馬出し空濠(からぼり)」と「椎木門(しいのきもん)跡」について紹介します。
位置関係は、下の図で確認してください。余談ですが、この元になっている図は佐倉市の公式サイトにある「佐倉城址公園について」というページのPDFデータです。城址公園を散歩する際に印刷して持参すると、とても便利だと思います。

馬出し空濠と椎木門の位置を確認してください。
馬出し空濠と椎木門の位置を確認してください。

◆馬出し空濠について

空濠の前に、説明用の看板がたっています。この看板、どうも舌足らずな感じがします。説明では
『城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。』
とあります。これを読むと、私などは「そうなると、戦闘時にはこの空堀の中に人馬を隠したわけか?」と思うわけです。しかし、それは完全な間違い。そんなことをしたら、上から敵の矢の餌食になって一瞬で全滅してしまいます。
馬出しというのは、城門の外からの攻撃に対して防御力を高めるための設備です。
追って説明しますが、この「馬出し空濠」の後ろに「椎木門」がありますので、その門の防御力を高めるための設備が、この空濠のある意味です。
下の図を見ていただくとわかりますが、もし城門に続く道になんの障害物もなければ、平時は便利ですがいざ戦争となった場合、簡単に城門を破られてしまいます。

そこで、敵が攻めにくくするための工夫として、重要な門の前に土塁を築いたり、堀をめぐらせたりしたわけです。堀があれば、敵はストレートに椎木門にはたどりつけない。堀を迂回して横から攻めてきた敵に横矢を射掛けるなどして撃退する。
仮に今この空濠に沿って土塁がめぐらされていれば『人馬の出入りを敵に知られぬようにした』という看板の説明は正しいのですが、少なくとも平成の世にはそんな遺構はないので、ここで指摘させていただきました。
ちなみに、椎木門跡の前に建っている看板には「馬出し空濠」の前に侍屋敷の図が描かれておりますので『城門前の遮蔽物』は、それらの侍屋敷が担っていたことになりますね。

馬出し濠の外側は侍屋敷があったようですね。
馬出し濠の外側は侍屋敷があったようですね。

◆馬出し空濠の写真

先述の看板には、この空濠は明治初期にできた連隊の使い勝手を考慮し、いったん埋められた旨が書かれております。後に佐倉五十七連隊と呼ばれることになるこの施設は、明治から昭和にかけての戦争の歴史において、戦地に送り出される兵士たちの過酷な運命を見続けることになるのですが、それは今回の稿の趣旨ではないのでまたの機会に。
看板には「長辺121メートル、短辺40メートルのコの字型、深さ5.6メートルと確認されました」とあります。長辺と短辺の長さは昔のままとし、深さを3メートルにとどめたそうです。深さが浅くなったのは、おそらく安全上の配慮でしょう。
写真撮影のポイントは上にあった図のとおりです。

下の写真、クリックしてみてください。

◆椎木門

看板に椎木門が在りし日のモノクロ写真がありました。こういう心遣いがあると、とてもうれしいですね。当時のありようがイメージしやすいです。
「北面、木造、本瓦葺、二階造り梁間三間、桁行七間。前面に馬出しが設けられていた。」
とあります。この門と馬出しの関係は、先述したとおりです。

歴博側(椎木門の外)から本丸方面を撮影
歴博側(椎木門の外)から本丸方面を撮影
本丸側(椎木門の内)から歴博の建物を撮影
本丸側(椎木門の内)から歴博の建物を撮影
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2014年

3月

13日

勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 4

◆勝胤寺と佐倉惣五郎の伝承「地蔵堂通夜物語(じぞうどうつやものがたり)」

勝胤寺から京成線をくぐるとするにあるお地蔵様。このあたりに、かつて勝胤寺の地蔵堂があったという。
勝胤寺から京成線をくぐるとするにあるお地蔵様。このあたりに、かつて勝胤寺の地蔵堂があったという。

国破れて山河あり、ではありませんが、本佐倉城が落ちた1590年以降も、山や河と同様当然ながら勝胤寺も残り、家康から寺領として20石を安堵されました。
そして江戸時代が到来し、佐倉藩藩主が堀田正信公の時代であったころ、佐倉惣五郎の事件がおきたとされています。17世紀の中頃におきたとされる事件ではありますが、本当のところいったい何が起きたのか、確たることが書かれた一次資料は一切ありません。
このあたりの経緯については、以前書いた記事に詳しいのでそちらにゆずりますが、今回紹介したいのは、この佐倉惣五郎の物語としてもっとも有名な「地蔵堂通夜物語」の舞台となったのが、この勝胤寺の地蔵堂だったという話です。ちなみに、現在書物の中に描かれている地蔵堂はありませんが、当時地蔵堂があったとされるあたりに、当時のものとされるお地蔵さんが建っています。
この「地蔵堂通夜物語」の成立年代は、およそ18世紀の半ばといわれていますので、事件発生から約100年もの月日が流れた後書かれたということになります。
この話の書き出しは、ある修行僧がたまたま勝胤寺に立ち寄った折、住職さんに近くの神社の由来を聞くところから始まります。住職さんがその修行僧の質問に答えて曰く「今日は庚申様の日ですから、村人たちがここに集まって夜通し起きていることになります。夜は長くなりますので、ゆっくり語って聞かせましょう」
というわけで、その夜に住職さんが地蔵堂で語った話が、その神社に祀られている義民惣五郎の悲劇だった、という流れになります。
勝胤寺建立が16世紀半ば。惣五郎の事件がおきたとされるのは17世紀半ば。勝胤寺地蔵堂を舞台に惣五郎の事件が物語として成立したのが18世紀半ば。私がこのお寺の前にたつとき、戦国時代から江戸中期までかけた三百年という壮大な歴史の流れを、どうしても感じてしまうのです。
地蔵堂通夜物語は、インターネットで引けば今でも簡単に購入できますし、佐倉の図書館ならばどこでも借りることができると思いますので、ぜひご一読ください。とても読みやすい口語訳になっております。

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2014年

3月

13日

勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 3

◆千葉勝胤の文化遺産

さて、今度はこの勝胤の文化的側面についてお話します。
佐倉千葉一族の中では、勝胤はもっとも大きな文化遺産をなした人物です。
一つ目は、勝胤が1514年に編纂した「雲玉和歌集(うんぎょくわかしゅう)」です。選者は衲叟馴窓。読めませんね。「のうそう・じゅんそう」と読むそうです。江戸の歌人だとか。
和歌集編纂は、もっぱら雅やかな文化が花咲く都の専売特許事業なので、この時期の関東ではめずらしいことのようです。
この和歌集の冒頭部分には

平のなにがしと申したてまつりて弓馬の家にすぐれ、威を八州にふるひ、諸道の達して政に両総にをさめ、なかにも大和歌にこころをよせて佐倉と申す地に幸草(さきくさ)のたねをまき給ふ。…(略)「←以上、酒々井町のサイトより抜粋」

とあり、この「平のなにがし」が千葉勝胤のことと言われています。当時は「勝胤」のような名前を「諱(いみな)」といい、人前で口にだすことはありませんでした。まして書き言葉として残すのは、憚られたわけです。
この和歌集には、千葉氏とは完全なる敵対関係だった東常縁(とうのつねより)や太田道灌の和歌も載せているそうで、なかなかに懐の深い印象があります。ちなみに、勝胤の歌は残されていないとか。あな、奥ゆかしや。

そして、二つ目の文化事業が勝胤寺の建立です。
勝胤は、晩年禅宗に帰依し、1532年にこの寺を建立しました。釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院で、「華翁祖芳和尚」を招き創建したと伝えられています。
この寺には、千葉勝胤以降の惣領、およびその妻の供養塔がみられます。たとえば、暗殺された親胤(ちかたね)の後を継いだ千葉胤冨(たねとむ)、こちらも暗殺されたとされる千葉邦胤(くにたね)とその妻、邦胤の遺児にして千葉氏滅亡の折は北条に囚われていた千葉重胤(しげたね)など。ちなみに、幾度かの地震により倒壊を繰り返したために、石積みの上下がやや怪しくなってしまった石塔もあるそうですが、いずれにしても貴重な文化財的価値の高い供養塔群です。

 

>>勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 4

千葉氏慰霊塔群
勝胤寺を入ってやや左手の小高いところにひっそりとたたずむ石塔群。
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2014年

3月

13日

勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 2

◆勝胤の時代の三つの事件

まずは、勝胤の時代に起きた有名な三つの事件についてお話します。
一つ目は、古河公方(こがくぼう)との抗争。このブログを読んでくれている人はお分かりになるかもしれませんが、古河公方というのは、将軍足利の血筋で、おおきなくくりで言うと「関東の将軍様」的な地位の俗称を指します。もともとは、室町幕府の出張所である鎌倉府の長官職が「鎌倉公方」と呼ばれていたのですが、関東のナンバー2ともいうべき上杉家との抗争を発端に、今の茨城県古河市に城を設けてそこを居城にしたことから、「古河公方」と呼ばれるようになりました。
佐倉の千葉一族は、この「古河公方」のお墨付きをもらって下総に君臨していたという側面が強くあったために、この一族との抗争はできれば避けたかったはずです。
抗争がはじまった経緯は、当時の書物が残っていないためよくわかりませんが、唯一の手がかりとして、山内上杉顕定から足利政氏奉公衆「二階堂左衛門尉」への書状があります。この書状には、この抗争の原因を、古河公方足利政氏から千葉孝胤に下した命令に対して、孝胤が無視を決め込んだことである、という趣旨の内容が書かれているそうです。
いずれにしても、そういう「ちょっとよくわからない」理由により、古河公方足利親子がわざわざ古河くんだりから船に乗って、本佐倉城から半日もかからない距離にある小篠塚城に陣取って、にらみをきかせたようです。
この古河公方親子の「篠塚御陣」は、結局1502年から1504年まで、三年近く続きました。迷惑な話です。
勝胤が惣領だった時代ではありますが、この件で足利政氏と交渉したのは、勝胤の父である孝胤だったようです。今の六崎のあたりにあった館で「休戦」交渉が行われたようですが、なんというか、他にやること無かったのか、政氏?と問いたい感じです。

もう一つは、北条早雲、氏綱親子の、急激な勢力拡大です(当時は、まだ「北条」を名乗らず「伊勢」としておりましたが、まぎらわしくなるので「北条」で統一します)。幕命により堀越公方茶々丸を殺害したのが1498年。名族三浦氏を滅ぼして、相模を平定したのが1516年。将に、破竹の勢いです。実はその間、1513年に北条親子が下総の地に侵出してきたのをきっかけに、勝胤と武蔵の地で刀を交えています。このときは、千葉と北条はまだ敵対関係にあったわけです。

そして最後に、これがたぶん「佐倉千葉氏」にとっては後々一番響いてくる大事件が勃発します。
「小弓城の陥落と小弓公方の成立」です。
小弓城は、今の千葉市中央区南生実町にあった城です。この城の城主は、千葉一族の庶流である原氏。この城は、上総からの敵を食い止める防衛ラインとして、とても重要な拠点のひとつでした。それだけに、この城は代々精鋭部隊が駐留し、当時上総の地を治めていた真里谷(まりがやつ)武田氏(以下「武田」とする)などの敵の軍勢を寄せ付けない堅城ぶりをみせていました。この城が、1517年、足利義明を担ぎあげた武田氏により落とされたのです。
足利義明という人物は、古河公方足利政氏の子で、三代目古河公方高基(たかもと)の弟です。古河公方になれなかった彼は、いっときは出家しておりましたが、上総から下総へ勢力を伸ばそうという野望をもった武田氏にそそのかされて、足利義明という俗名を得て還俗しました。
「足利将軍家の血筋の後ろ盾」という大義名分を得た武田氏は、大軍をもって下総の前線基地である小弓城に攻めかかります。小弓城城主原とその家来たちはよく持ちこたえますが、ついに力尽き落城しました。結局、小弓城は武田方にのっとられ、足利義明が城主となり、その時点をもって自らを「小弓公方」と僭称することになるわけです。

武田二十四将の図。この中に原虎胤がいるはず。
武田二十四将の図。この中に原虎胤がいるはず。

このとき敗走四散した原氏の一人が原虎胤(とらたね)といいます。この人物は甲斐の国まで落ち延びるのですが、なんと後に武田信玄の元で「武田の二十四将」のうちの一人となり、重鎮として畳用されることになります。人生、わからないものです。
元へ。この落城の折、千葉勝胤はおおいに怒り、数年前戦を交えた北条早雲に小弓城奪還作戦の共闘をもちかけますが、無下に断られております。北条側に共闘を断られた勝胤は打ち手をなくし、歯ぎしりしながら武田との和睦を結びました。
この対立構造が、後に「第一次国府台合戦」に結びついていくことになるのですが、それはまたの機会にしたいと思います。

このように、勝胤の治世は戦続きで苦労は多かったものの、佐倉千葉氏の歴史としては唯一、党派性の薄い時代だったともいえるのではないでしょうか。
「古河公方」の権威のゆるやかな失墜と「北条」の急激な成長の端境期(はざかいき)、それがそのまま勝胤の治世と重なった、という見方ができそうです。

 

>>勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 3

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2014年

3月

13日

勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 1

◆はじめに

京成大佐倉の駅を背にして右手、線路沿いの人ひとりがやっと通れるくらいの細い小路を歩いていくと、左側に勝胤寺(しょういんじ)が見えてきます。
門の前に大きく「勝胤寺」と隷書体で書かれた大きな木製の看板がでておりますので、見落とすことはありません。
このお寺は、戦国時代本佐倉城を居城にし、下総の地を治めた千葉勝胤(かつたね)によって建立されました。
今回は、このお寺を建立した千葉勝胤の話と、江戸時代中期に作られたと言われれる、「地蔵堂通夜物語(じぞうどうつやものがたり)」の舞台となった勝胤寺の地蔵堂についてをお話いたします。

◆千葉勝胤

千葉勝胤といえば、佐倉千葉氏の中ではおそらく一番有名な惣領の名前なのではないでしょうか。酒々井町が誇る本佐倉城マスコットキャラクター「勝っタネ!くん」のベースとなった人物なのです・・・と言っても、うぅむ、少々マイナーでしょうか(すみません)。

さて、この千葉勝胤公とは、どんな人物だったのでしょうか。
千葉市中央区亥鼻の居城から佐倉の地に移ってきた馬加(まくわり)系千葉氏としては、輔胤→孝胤(たかたね)→勝胤、となりますから三代目にあたります。生没年は、およ そ1470年から1532年まで。同世代の有名の武将としては、北条早雲の息子である北条氏綱(1487年生まれ)や太田道灌(1432年生まれ)が、 まぁ近いといえば近いです。戦国初期は混沌としていて、あまり有名な武将がいないんですね。

 

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2014年

3月

07日

佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 4

前ページの続きです。

まず、加える要素の一つ目として、時代背景があります。この江戸中期という時期は、町民の文化が花咲く一方で、農民は凶作と増税に苦しみ、各地で一揆が発生していました。この時期、もちろん佐倉藩領内でも農民たちの不穏な動きが発生していました。
もう一つが、この「正亮の馬の手綱を引く老人」の物語の骨組みが「堀田家と惣五郎の和解」である、という点です。
これらの要素を足しあわせ考えると、かつて「農民のヒーロー」として殉死したとされる惣五郎にかかわりの深い堀田家が佐倉藩藩主に着任したわけですから、この「危険な時期」を乗り切るためにも、なんとしても正亮の代に悲劇を清算し、惣五郎との和解をアピールする必要があった裏事情が見えてきます。その意味で、ここでは惣五郎の物語のどこまでが事実か、という点は問題ではありませんでした。農民たちの間で語られていた物語こそが、この時期の堀田家にとっては「解決すべき重要な懸案事項」だったのです。
その文脈で考えると、角来の馬頭観音は、先の伝承とセットにすると、農民と堀田家の間にわだかまる緊張関係を解消するためのシンボルとして作られたことがわかります。
もう少し俯瞰すると、将門山での祭祀は「堀田家から惣五郎への積極的な慰霊行為」であるのに対し、この馬頭観音をめぐる伝説は「惣五郎から堀田家への許し」がテーマになっているという点で、対をなしているわけです。
また、上の理屈でいえば、この馬頭観音が「前期堀田家と後期堀田家」をつなぐ役割を担っているという点も、見逃すわけにはいきません。いわば惣五郎が仲介役となって、正亮に正信の馬を祀らせた、という流れを作ったということになるわけです。
少々大げさな表現をするならば、八十年以上の不遇の時代を耐えた後、「二つの堀田家」はこの馬頭観音によってはじめて明示的につながったともいえるのではないでしょうか。

◆おわりに

国道296号線を車で走ると、八幡神社の前のあたりでようやく佐倉城があった台地が視界に入ります。それまでは、右手にある高台の上の家々に遮られて、佐倉城を望むことはできません。
かつてこの道が江戸とつながる街道として利用されていた時代も同じ地形をなしていたとすると、江戸から佐倉へ下る際に最初に佐倉城を間近に見ることができたは、まさにこの地だったわけです。
そのように象徴的な意味を持つ土地だからこそ、伝説の中で「馬が頓死」し、また「藩主以外見えない謎の老人」が現れたのかもしれません。
この馬頭観音の祠の中には、「馬頭観音」と揮毫された木彫の額が飾られています。この額のために筆をとった人物は、昭和に入って市長を四期勤められた堀田正久と記載されています。額にあるとおり、これは昭和五十六年にものされたようですね。正久は、昭和五十年まで市長を勤められたそうですので、この書は公職を退いて六年後に書かれたものです。
この小さな観音のために筆をとった昭和期の堀田家当主の胸に去来した気持ちを知ることはできませんが、この観音が担った重要にして象徴的な意味を、深く感じながら筆をとられたのではないでしょうか。

写真を大きく表示したい場合は、クリックしてみてください。

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2014年

3月

07日

佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 3

◆伝承「佐倉藩主正亮の佐倉入りと角来の老人」と正亮の治政

ここからしばらくは、史実と伝承が入り混じった話になります。
1746年の8月、正亮は、佐倉藩藩主就任後はじめて佐倉の地に訪れます。
さて、正亮の一行が角来の坂のふもとに建つ八幡神社の前を通っていると、正亮の前に一人の老人が現れました。
その老人はおもむろに正亮が騎乗する馬の手綱をとると、黙って佐倉城の大手門までついてきました。
その後、正亮が家来たちに「角来のあたりからついてきた老人は誰だ」と問いただしましたが、家来の誰一人、その老人を見た者はいませんでした。正亮は不審に思いさらに家来に尋ねていると、家臣の一人が「その老人は、惣五郎の亡霊だったのではないでしょうか」と言いました。
正亮はそれを聞くと「そんなことはあるまい」と笑ったそうです。
しかしその後、正亮は惣五郎を将門山の口之明神に祀り、毎年2月と8月に盛大な祭典を行なうようになりました。そしてこのとき、かつて堀田正信の馬が死んだ角来の地に、その馬の供養のために馬頭観音を建立した、と言い伝えられています。
以上の話の中で「史実」と確定できるのは

  • 1746年に正亮が帰藩したこと
  • 正亮が惣五郎を将門山の口之明神に祀ったこと
  • 正亮が正信の馬の供養のため、角来の地に馬頭観音を建立したこと(ただし、今祠にある馬頭観音の板碑はおそらく当時のものではないと思われる)

です。

以上のような伝承含みの話は、もちろん「紀氏雑録」のような公式の文書に残っているわけではありません。しかし、この話が言論統制も受けずに語り継がれていることや、少なくとも将門山での祭祀や馬頭観音は正亮時代からの文化遺産であること、などとともに、さらにいくつかの要素を加えて考えると、興味深い点に気付かされます。
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八幡神社の上から佐倉城の舌状台地を臨む。左端は歴博。赤い印が、だいたい佐倉城があったんじゃないかと思われる箇所。地元の人は「御三階」と呼んでいたそうです。
八幡神社の上から佐倉城の舌状台地を臨む。左端は歴博。赤い印が、だいたい佐倉城があったんじゃないかと思われる箇所。地元の人は「御三階」と呼んでいたそうです。
道路側から八幡神社へは、この急な階段を登る必要あり。けっこう、地味にきつい。
道路側から八幡神社へは、この急な階段を登る必要あり。けっこう、地味にきつい。
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2014年

3月

07日

佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 2

◆伝承「惣五郎の物語」と正信

馬頭観音正面
馬頭観音正面

さて、そんな堀田正信が佐倉藩主だった時代に、あの有名な「佐倉惣五郎の事件」がおきたとされています。ちなみに、この事件については、当時の公的な文献は残っていません。
今、我々が知ることができる「佐倉惣五郎」の話は、事件が発生したとされる時代から実に100年近い年月が流れた後に書かれた「地蔵堂通夜物語」という書物がベースになっているのです。その100年もの間、この物語は「口伝」により、地元の人の間で語り継がれてきたとされています。
たとえば、この記事を書いているのは2014年ですから、百年前といえば1914年(大正3年)。第一次世界大戦が勃発した年と重なります。仮に、大正三年に発生した事件が今日まで語り継がれ、ようやく書物になったとしたらどうでしょう。その物語のどこまでが事実なのかを知るのは、事実上不可能です。
佐倉惣五郎の物語は、そういう背景があるということを、まず頭に入れて考える必要があると思います。ただ、この物語は角来の「馬頭観音」を語るうえで、どうしてもはずせない鍵になる部分ですので骨組みだけお話しすると、

  • 正信が佐倉藩主だった時代に木内惣五郎という名主がいた
  • 佐倉藩の厳しい年貢のとりたてに耐え切れない農民たちの代表として、惣五郎が幕府に佐倉藩の年貢減免を要望する直訴をした
  • 結果、惣五郎の願いは聞き入れられ佐倉藩の年貢の率は下げられたが、惣五郎以下妻、息子たちは極刑に処された

といった感じの、惣五郎という義民の悲劇の物語です。
物語はこの後、惣五郎の呪いにより、堀田家に禍がふりかかり、結果藩主は発狂する、というような筋になっていくわけですが、この「藩主の発狂」は、先に説明した「正信の幕政批判に関する一連の沙汰」を暗示するような書きぶりになっています。
また、この惣五郎の伝承については実にたくさんのバージョンがあるのですが、その中のいくつかに、正信が発狂して江戸から一人馬を走らせて佐倉へ向かったところ、角来の坂の途中で馬が疲れきって死んでしまい、そこから佐倉城までは歩いて行った、とするものがありました。
この伝承が、角来の地に馬頭観音が祀られることになる鍵になるわけです。

◆事実としての佐倉藩主後期堀田家のはじまり・堀田正亮

さて、前章でお話した堀田正信の幕政批判と失脚から、堀田の一族は苦しい時代を送ります。正信の直系は、先の問題で堀田家の嫡流から外れ、堀田宗家は正信の弟である堀田正俊に変わります。そしてこの人物は、いったんは徳川綱吉に畳用されるのですが、その剛直な気質から綱吉にうとまれるようになり、また幕府内での意見対立から若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまいます。
この後、宗家である正俊の一族は幕府で冷遇され、つらい時代を送ることになりました。
風向きがかわったのは、正俊の孫の代に生まれた正亮が、堀田宗家を継いだあたりからです。
この時、将軍は徳川家重で、家重にとっては父である吉宗が推進した「享保の改革」による増税と凶作が原因で、各地で一揆が多発していた時代でもありました。
この難しい時代にどのような政治力学が働いたのかは定かではありませんが、とにかく正亮は、奏者番→寺社奉行→大阪城代という重責に次々に抜擢されます。その後も、実に破竹の勢いで幕府内で政治の中心にくいこんでいき、1745年、ついに老中にまで上り詰めます。
そしてその翌年の1746年、幕府内での役職は老中のまま、佐倉藩藩主に任命されたのでした。堀田家としては、正信から数えて八十年余りが経った後の、「悲願の帰藩」だったのではないでしょうか。
>>佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 3

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2014年

3月

07日

佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 1

◆はじめに

臼井駅を背に296号線を佐倉駅方面に走ると、鹿島橋より400メートルほど手前の左側に八幡神社があります。
道路から見ると、見あげなければ見えないくらい高い位置に鳥居があります。
本日紹介するのは、その八幡神社のふもと、高台を巻くように入る細い小路にひっそりとある「馬頭観音」についてです。
実は、この馬頭観音は、あくまで伝承の世界の中で、佐倉藩藩主の一族として有名な堀田家の、失われた時間を結びつける不思議な役割を果たしていたのです。
少々長くなりますが、馬頭観音の話をする前に、いったん堀田家の概要と、付随する伝承をお話しします。

馬頭観音の祠
馬頭観音の板碑。祠の中にあるものは、見たところ新しいものにみえる。少なくとも、江戸中期のものではないようだが・・・。

◆史実としての佐倉藩堀田家の話

佐倉藩藩主の堀田家は、歴史家は便宜上、前期と後期とに分けて論述する場合があります。
簡単に言うと、以下のようなマトリックスが組めます。
江戸時代の佐倉藩藩主

前期堀田家 正盛、正信 1642年~1660年
堀田以外の大名時代 複数の大名家 1661年~1746年
後期堀田家 正亮、正順、正時、正愛、正睦、正倫 1746年~1869年

上の表を見ると、佐倉藩の歴史は堀田時代の前期と後期との間に八十年間強の「堀田以外の大名時代」があったことがわかります。
これは、前期堀田最後の佐倉藩藩主である正信が、当時の幕閣の政治に異を唱え、かなり強い調子の建白書を幕府に提出した後、単騎(といわれている)で江戸から佐倉へ戻ってしまったことが「事の発端」となっています。
当時、各藩の藩主は江戸に詰めていることが義務付けられていましたし、表立って幕政批判をすること自体ももちろん「危険な行為」でした。正信の父親は、徳川家光の懐刀として有名だった堀田正盛でしたから、その子正信は要職にこそ就いていませんでしたが、幕府でも一定の発言力があったのは間違いありません。が、だからこそ、幕府の中枢にいる人物の幕府運営が自分の政治観と合わない場合に感じるストレスは、大きい物があったのでしょう。
そんな中、正信は先に述べた「強い調子で幕政批判をした建白書の提出」と「無断帰藩」という二重の罪を犯してしまいます。
この件について、当時の幕府でも正信にどのような沙汰を下すか、相当な議論があったようです。もし、この件で甘い裁定を下せば、「無断帰藩」のような危険行為の罪事態が軽いものだという判例を作ってしまいますので、それはできない。一方で、幕府で大きな功績を残した亡き正盛公の息子である正信に切腹を申し付ければ、全国的な幕政批判の火を付けかねない。そこで、幕府がとった裁断は、正信の行為を「発狂した」ことによるものとし、所領没収の上、今の長野県上田市にあった上田城の弟の元へ「預け」ることになったのです。
以上のような経緯で、佐倉藩主前期堀田家の歴史は幕を閉じます。
>>佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 2

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2014年

3月

04日

甲斐武田最後の当主、武田信吉(のぶよし)は、近世佐倉の初代領主だった 2

前回の続きです。

さて、武田宗家を継いだ武田信吉は、1590年、今の松戸市にあった小金城に入ります。
さらにこの人物、秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)おねの血筋の娘を妻に迎えるという、すごい運命を背負った人生を歩んでおります。
家康の息子にして甲斐武田宗家嫡子、北政所の血筋の女性を娶る。信吉、どこにいっちまうんだ?という感じです。
そして、1592年、信吉は佐倉の地を与えられたのでした。
近年の調査で、そのころの信吉の館の位置がわかってきているようです。古図に、信吉の幼名である万千代様の屋敷が「大堀館」だった、と書かれていて、発掘調査でその屋敷跡が、今のトライアルがあるあたりだった可能性が高い、とされているようです。
なるほど、あのあたりも、印旛沼から見ると高くなってますね。かといって、本佐倉城のような天然の要害でもない平べったい土地です(当時はもう少し違ったのかもしれませんが)。もはや、戦国が終わったことを象徴する立地だったといえなくもない感じです。
さて、その信吉ですが1600年の関ヶ原の戦いでは、江戸留守居役で江戸にいたそうです。家康の息子なら関ヶ原で初陣を、とも思いますが、どうやらこの人物、生来身体が弱かったようです。
その後、1602年、信吉は常陸国水戸25万石に封ぜられました。
しかし、その翌年、病弱だった信吉は、弱冠20歳でこの世を去っております。
信吉は、北政所の血筋の妻との間には子をなさなかったため、ここで武田宗家はついに断絶してしまうのでした。
この後、江戸時代18世紀初頭に武田家は復興するのですが、それは勝頼の盲目の兄の流れですので、宗家は信吉でいったん絶えた、ということになっているわけです。

ここから先は、2011年5月発行の「広報佐倉」の記事である「新佐倉錦めがね」に掲載されている内容を参考にしつつの記述になるのですが、本佐倉城のあるセッテイ山の近くに、諏訪神社があります。また、本佐倉城や酒々井には、双体道祖神が多くみられます。諏訪神社にしても、双体道祖神にしても、武田氏の勢力下に多く見られるものであるそうです。
※双体道祖神の分布については、鈴木英恵氏の論文(←PDFデータです)に詳しいので、そちらを御覧ください。
資料による裏付けは無いようですが、それらの文化や信仰に、武田信吉の関与があると考えると、新旧の血統と家名を一身に背負って短い生涯を終えた信吉の姿がかいま見える気がして、少しだけ心が暖かくなるというか、うれしくなるというか、そんな気にさせられます。

追記
信吉が最初に入った下総小金城の周辺に双体道祖神がないものかとネットで検索したところ、やはりありましたね。松戸在住の方がやっているブログで、 松戸の千駄堀地区にある双体道祖神が紹介されてます。道祖神がある正確な場所はわかりませんが、小金城から距離にしてだいたい4kmくらい。千葉県では、 双体道祖神はめずらしいようですので、もしかするとこれも信吉が持ち込んだ文化なのかもしれません。信吉にとってみればたった二年しかいなかった松戸の地 ですから、ちょっと考えづらいのかもしれませんが、そういうことを考えるのも楽しいですよね。

追記の追記

このブログでも何度か取り上げた「ちばの観光まるごと紹介」という千葉県が運営しているサイトに、武田信吉と松林寺に関する記述がありましたので紹介いたします。以下、斜体箇所抜粋文です。

『毘沙門像は、大佐倉の陣屋に徳川家康の五男、武田信吉を祀ったのを最後に、松林寺に奉納されたと伝えられています。』

このサイトの前後の文脈では、この「毘沙門像」について触れていないために推測するよりほかないのですが、武田信吉を祀るために毘沙門像が用いられ、結果松林寺に奉納された、と読めますが、どうなのでしょうか?もし詳しいことを知っておられる方がいれば、教えていただけると嬉しいです。

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2014年

3月

04日

甲斐武田最後の当主、武田信吉(のぶよし)は、近世佐倉の初代領主だった 1

1590年、千葉氏は豊臣秀吉の小田原征伐とともに、戦国武将としての役目を終えました。その2年後の1592年、秀吉の世になってはじめて佐倉の地の領主となった人物が、なんとあの武田信玄を排出した名族、甲斐源氏武田宗家の最後の当主だったということは、あまり知られていません。
私がこの事実を知ったとき、ひっくり返るくらいに驚きました。だって、武田は信玄の後を継いだ勝頼が織田信長に長篠の戦いで大敗した後、天目山で自害して果てた時点で滅亡したと思っていたから。
確かに、それは間違いじゃないんです。でも、一方ではそうじゃないとも言える。
今回は、そんな「佐倉・歴史のビックリ複雑ニュース」を紹介します。

時は戦国時代末期の1575年、世はもはや、織田信長により近世の扉をこじ開けられようとしておりました。
長篠の戦いというのは、「大量の鉄砲を使った戦術」対「騎馬武者戦術」という、新対旧の戦いとも言え、結果はご存じの通り織田軍の圧勝、武田勝頼軍敗走となりました。この後、勝頼はなんとか巻き返しを図るべく他国との同盟などによる政治工作を開始しますが、もはや世を逆戻りさせる力は残っておらず、1582年天目山にて自害しております。
この時点で、確かに「戦国武将」としての武田家はその役割を終えています。
この後、徳川家康が甲斐武田氏の名跡を惜しみ、武田の血を引く武田信治を当主に据え置きますが、信治はわずか16歳でこの世を去ってしまいます。なかなかうまくいかないものです。
そして、1590年の小田原征伐が秀吉勝利のうちに終わると、家康は再度武田氏の復活を画策します。
家康が武田宗家の跡取りとして白羽の矢を建てたのは、なんと自分の息子である武田信吉(のぶよし)でした。
「そんな、無茶な」と思うかもしれませんが、意外にそうでもないんです。この武田信吉という人物の母は、武田の遠い分流であり、武田家の譜代家臣でもあった秋山氏の娘・於都摩(おつま)なのでした。つまり、家康は武田氏の血を引く女性を側室に迎え入れ、その側室との間にできた子を武田の跡取りにした、という次第。それならば、当時としてはあり得ない話じゃありません。

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2014年

2月

28日

千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 2

前回の記事では、鎌倉公方と関東管領は、そもそも宿命的にいがみあう構造だった、という話しをしました。
結果、ある意味では足利尊氏の思惑通り、この役職についた二人は、代々牽制しあう仲になりました。
しかし時代は進み、室町も中期を迎えるころには、鎌倉府の中ではいがみあいが先鋭化し、一触即発という状況になる。15世紀に入ると、お互いが殺しあうという事態に発展していきました。
そして15世紀半ば、ついに動乱の火蓋が切って落とされることになります。
鎌倉府のナンバーワンは、足利将軍家の血を継ぐ足利成氏、対するナンバーツーが、関東管領の上杉憲忠で、この二人がとにかく仲が悪かった。結局、足利成氏は、鎌倉のとある屋敷で上杉憲忠を謀殺してしまうのでした。この事件が発端になってはじまる動乱を『享徳の乱』(1455年。ただし、この事件が起きたのが旧暦の12月末ということもあるため、そのあたりの事情を勘案し1454年の末と表現する学者もいる)といい、この事件をもって関東の戦国時代が開始したとされています。
その『鎌倉府の内ゲバ』が飛び火して、千葉一族も真っ二つに割れます。
上杉方についたのは、惣領の千葉胤直一派、足利方についたのが千葉氏の庶流である馬加康胤とその仲間、という対決軸です。
この戦いは、緒戦は上杉憲忠を殺した足利方に有利に進みます。上杉憲忠を殺した成氏は、その余勢をかって上杉の与党の武将を次々に破っていきます。まさに連戦連勝、破竹の勢いです。
この後も足利成氏は関東各地を転戦するのですが、あんまり鎌倉を留守にしていたものですから、この間に駿河の今川氏に鎌倉を乗っ取られてしまう、というピンチに追いまれてしまいます。
その結果、足利成氏は鎌倉を捨てて、今の茨城県古河市にあった古河城に動座することになったわけです。
これをもって、足利成氏は『古河公方』と呼ばれるようになり、成氏の子孫たちも同様に古河公方として、関東の戦国時代の主役の一角を担うことになっていきます。

また、この享徳の乱発生の一年後、先に話した馬加康胤の一味が、千葉本宗家の居城亥鼻城に夜襲をかけて、結果多古で胤直公を自害に追い込むことになるのです。
先に書いたとおり、ここで千葉家本宗家は滅亡してしまうのですが、自害した胤直の弟に二人の息子がおりまして、この二人はなんとか生き延びることに成功します。
そして、この二人が逃げていった先が武蔵の地、つまり今の東京なので、彼らのことを『武蔵千葉氏』と呼びます。
というわけで、この段階で千葉一族は、馬加系の『下総千葉氏』と、本宗家の弟の息子という意味では庶流の『武蔵千葉氏』に分裂することになるわけです。
結論を言ってしまうと、『武蔵千葉氏』はいろいろと政治工作をするのですが、夢かなわずついに千葉本家に返り咲くことなく、戦国武将としての歴史の幕を閉じます。

以上のような理由で、この一連の騒動の後『千葉宗家』を名乗るのは『馬加系千葉氏』となり、居城は本佐倉城と定まった、というわけです。

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2014年

2月

28日

千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 1

先日アップした小篠塚城の記事について「古河公方って、なに?」という素朴な疑問をお問い合わせいただきました。確かに、突然「古河公方」っていわれても、なんだかわかりませんね。
下に、鎌倉府やら古河公方やらといったものが、そもそも何なのか、ということについて、千葉一族の分裂の経緯とあわせて紹介します。
加えて、千葉一族ってそもそもなに?ってことについては、私がまとめた冊子用PDFデータを下にアップしましたので、そちらをダウンロードしてお読みください。だいたい一時間くらいで読みきれる分量です。これを読むと、千葉一族のおよその歴史がお分かりいただけるかと思います。
なお、こちらの資料を何か(学校の教材とか勉強会の資料とか)に使いたいと思われる方がおられましたら、お問い合わせ窓口から用途をお知らせください。データとして利用いただく、もしくはダウンロードしたデータをご自身でプリントして使っていただく分には、費用はいただきません。著作権者として、利用用途を知っておきたいという思いからのお願いです。
もし、紙の冊子の状態で欲しいという方がおられましたら、一部300円+送料でお送りします。それについては、恐縮ですが十冊以上からの受付とさせていただきます。何しろ手作り・受注生産なので、多少時間をいただくこととあわせご了承ください。

千葉一族盛衰記
140110_千葉一族盛衰記.pdf
PDFファイル 5.9 MB

千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 1

千葉一族は、室町中期にお家の内紛で分裂して、結果千葉宗家は滅ぼされてしまいます。
このとき、千葉の惣領である千葉胤直(たねなお)を、今の多古町で自害に追い込んだのが、幕張を本拠地としていた馬加康胤(まくわりやすたね)で、この人も結局室町幕府の追討軍に攻められて、今の市原市のあたりで討ち死にしてしまいます。時はまさに戦国時代、めまぐるしく主役が交代していきます。
その後、馬加康胤と血縁関係にあった岩橋輔胤(いわはしすけたね)という人物が、すったもんだの末に千葉宗家を名乗ることになります。
この輔胤という人物が生きていた時代に、千葉の本拠地は今の千葉市中央区亥鼻から、本佐倉城に移ることになります。
さて、時間をちょっと戻して、そもそも千葉一族が内紛をおこしたきっかけについてなのですが、これは『鎌倉府』の内ゲバが原因なのでした。

『鎌倉府』というのは、簡単に言うと室町幕府の関東出張所です。
室町幕府というのは、『大名の寄り合い所帯』という性格が強く、とても全国を治める力はありませんでした。そんなわけで、西日本は幕府がなんとか運営するけど、東日本は別の組織を置こうじゃないか、と足利尊氏が置いた出先機関が鎌倉府です。
鎌倉府の初代長官(後の俗称は鎌倉公方)は、足利尊氏の息子の足利基氏(もとうじ)です。
さてそこで、苦労人の足利尊氏は考える。息子とはいえ、関東の権力を一手に握る役職を作ってしまうと、後に禍を残すことになるかもしれん。関東には、長官と拮抗する権力をもつナンバー2を付けることにしようぞ。
そこで、『権力拮抗策的強力なナンバー2』として執事(後の関東管領)を置き、その役職を代々上杉家が継ぐことになります。
そんなわけで、鎌倉府はその成立当初から、トップである鎌倉公方と二番手の関東管領がいがみ合うことを前提に作られた組織だったのでした。

>>千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 2

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2014年

2月

27日

宗圓寺と明治の烈士・戸村芳蔵について 2

今回は、西南戦争に従軍した戸村氏の活躍を中心にお話しします。
通俗絵本鹿児島軍記
秋元房次郎編
この本は、完全に新政府側の視点から書かれています。
西郷隆盛が率いる反乱軍を、尊皇攘夷を口実に、開国進歩をよしとせず、ただ不平をつのらせ政府を恨む破廉恥な連中だ、ともう散々な言いようです。
また、反乱を起こした西郷隆盛を『君側の奸』とし、承平天慶の乱を起こした平将門や藤原純友になぞらえ非難していることからも、当時の将門の扱いを知る上でとても興味深い内容になっています。
さておき、この書になんと若かりし頃の戸村芳蔵の勇姿が描かれております。しかも、
第卅一回 ◇船川戦ひ敗れ有田生捕られる並戸村芳蔵竹宮に激戦す
なんて、章題で名前が出るという大扱い。びっくりしました。
この「戸村芳蔵」が主役の三十一回は、鹿児島と肥前の堺、宇土周辺で行われた薩軍と新政府軍の激戦の様子を、時間単位で克明に描き出しています。
当時の戦は、大砲、鉄砲がもっぱらで、白兵戦では刀や銃剣をもって戦っていました。この本が新政府側のプロパガンダとはいえ、その部分を差し引いても「賊軍」として扱われている反乱軍側の近代兵器の物理量の劣勢はぬぐいきれないものがあり、少々気の毒になります。
また、この章の途中に
「内閣顧問従三位勲一等木戸孝允今日午前六時三十分薨去」
明治十年五月二十六日に、太政大臣の三条実美の名前で、さらりと書き込まれている。Oh、三条実美!
木戸孝允といえば、坂本、高杉、西郷などと肩を並べる幕末のビッグネームです。彼の死が、西南戦争の趨勢を伝えるプロパガンダの文章で伝えられているあたり、明治維新がいよいよクライマックスを迎えている当時の空気を感じないわけにはいきません。

脱線ばかりして先に進みませんが、戸村の話しに戻ります。
抜群に勇敢な戦士は各隊に多いけれども、東京歩兵第一大隊第四中隊伍長代理戸村芳蔵はすごいぜ、という文章が、この「三十一回」の章の後半に出てきます。
明治十年四月二十日、竹宮の戦いで、敗れた薩軍を追った新政府軍の一隊が、薩軍の待ちぶせにあい囲まれます。もはやこれまでと思ったところ、戸村は「一人を銃創(ママ)にて突き倒し逃る一人を砲撃するにより 凶徒は怒って再度瀕激し 二人が烈敷(はげしく)斬りつくるを 又も一人砲撃せしにあやまたず 砲声と共に斃れたり 一人を■■へ突殺し 静静と隊中へ立帰り来りしに 銃創刀傷(なまきずたちきず)も二三個所ハあれども 更に屈せず気力少しも衰えざるは賢に稀なる勇士なりという」
壮絶です。
この後も、激戦の様子が克明に描かれておりますが、この地獄のような戦をくぐり抜けたことが、戸村の死生観に大きく影響を及ぼしたのは間違いないでしょう。
戸村はこの後、明治十四年(1881年)に千葉県巡査となり、二十四年(1891年)には巡査部長となって佐倉警察署に勤務したそうです。
そして、翌明治二十五年(1892年)、佐倉で天然痘が大流行し死者が続出する中、検疫、消毒等の処置にあたり、自らも天然痘に罹患し、42歳で亡くなっています。
幕末から明治という激動の時代に翻弄されつつ、自らの役割を果たすという筋を曲げずに生きた烈士の生き様を紹介いたしました。
もし、宗圓寺に来ることがあれば、本堂の右側に戸村の功績を讃えた「盡道之碑(じんどうのひ)」が建っておりますので、参拝しつつ彼の思いがどんなものだったのか考えてみてはいかがでしょうか。

下の写真をクリックしてみてください。大きく表示されます。

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2014年

2月

27日

宗圓寺と明治の烈士・戸村芳蔵について 1

吉川英治の母「いく」の実家の菩提寺である嶺南寺の真向かいに、臨済宗のお寺である正覺山宗圓寺がありました。このお寺は、幕末から明治にかけて活躍した蘭医、佐藤泰然の菩提寺として有名です。
建立は17世紀中期。嶺南寺と同様、堀田正盛公が松本から佐倉へ転封された時代に建立されたようです。私が境内にあった石碑などを眺めていると、墓地の管理事務所にいた女性が親切にも寺の縁起が書かれたA4の書類をもってきてくださいました。ここには、相当しっかりと宗圓寺の成り立ちなどが書かれておりますが、サイトに掲載するのは著作者の許可を得ていないので今回は控えます。檀家総代の方、もしくは住職さんに、機会があれば許可をとりたいと思っております。
さて、宗圓寺といえば、やはり佐倉市の誇る蘭医である佐藤泰然を思い浮かべられる方が多いかと思いますが、今回とりあげさせていただくのは別の人物です。
私も、まったく存じ上げませんでした。千葉県警巡査部長の戸村芳蔵。西南戦争に従軍し、後に佐倉市で猛威をふるった天然痘を食い止めんと検疫、消毒の処理にあたり、ついに自らも罹患して殉職した烈士です。
生まれは今の山武市ですので菩提寺はそちらにあるそうですが、佐倉の人々が彼の功績をたたえ碑を建てたそうです。
そのあたりの経緯については、下の看板の写真にありますので、ぜひ読んでみてください。※写真、クリックすると大きく表示されます。

この人物を調べるうち、私が驚いたのは

  • 西南戦争の経緯を克明に記した「通俗絵本鹿児島軍記」に戸村氏が大きく扱われていること
  • 天然痘が、明治時代に佐倉に猛威を振るったという事実

でした。確かに、天然痘といえば漠然と「昔の死病」くらいなイメージしかなかったのですが、恐ろしい病気だったんですよね。我々の衛生的な生活は、そういった先人たちのたゆまぬ努力の上にある、などと説教臭いことを考えつつ、石碑に合掌してまいりました。
さて次回は、その戸村氏が「通俗絵本鹿児島軍記」に、どんな扱いで掲載されているのか、ということを皆さまに紹介いたします。

>>宗圓寺と明治の烈士・戸村芳蔵について 2

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2014年

2月

26日

吉川英治の母と嶺南寺

嶺南寺は、吉川英治の母いくのご実家である山川家の菩提寺です。
ちなみに、いく自身の墓は横浜市の蓮光寺にたてられましたが、吉川英治の没後、多摩墓地に合葬され現在にいたるようです(草思堂から)。

※この参照先の「草思堂から」というサイトは、吉川英治記念館の学芸員の方がやっておられるブログで、吉川英治を知る上で欠かせない情報を掲載されております。とても読みやすいブログですので、ぜひご一読ください。

そんなわけで、吉川英治氏とは若干遠い関係のお寺になりますが、彼のルーツのひとつでもあるので紹介させていただきます。

お寺の紹介は、「ちばの観光まるごと紹介」というサイトの文章がよくまとまっておりますので、申し訳ないですがそのまま紹介させていただきます。
【以下参照文】
曹洞宗の嶺南寺は、寛永19年(1642年)に当時の信濃松本藩主、堀田加賀守正盛の佐倉移封と共に松本より佐倉に移り建立されました。本尊は「釈迦牟尼佛」で開山は陽南良雪大和尚です。本堂内には閻魔大王を安置しています。境内には作家・吉川英治の母方である山川家の墓があります。佐倉七福神の弁財天を祀る札所としても知られています。
【以上参照文】

佐倉中学を背に東へ進み、中央図書館をすぎると左手に佐倉小学校に入る小道がみえます。その小道を入ると、寺院が密集している地帯になります。

佐倉城にかぎらずなのですが、近世のお城の近くにはこのようにお寺密集地帯がある場合が多いです。理由はいくつかありますが、士族や領主の菩提寺が城の近くにあったほうが便利だから、とか、江戸時代はお寺が市役所の戸籍係を兼ねていましたから、その意味でも密集していたほうが利便性が高かった、とか。戦国時代の城と寺の関係のように、防衛や武士だまりができる場所を作るためのものではなく、江戸期のそれはもう少し自然発生的なものだったのでしょう。ちなみに、この小道にあるお寺には、堀田家の菩提寺である甚大寺や、佐藤泰然の菩提寺である宗圓寺もあります。そしてもちろん、いくのご実家の菩提寺である嶺南寺もこの小道の一角にあります。

境内に入ると、立派な梅の木がありました。

お寺の方の案内で墓地へと進みます。境内の中のゆるい坂を下ると、右側に山上家の墓が見えました。

これが、山上家のお墓です。史跡というよりは、いわゆるお墓ですので参拝する際には気をつけたいところです。

江戸詰執政を務めた佐倉藩の重鎮池浦氏も、このお寺に眠っておられます。

幕末の蘭学医である浜野了元も、このお寺を菩提寺としております。写真ではわかりにくいですが、とても大きなお墓でした。

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2014年

2月

25日

佐倉、吉川英治、江原台のはなし 2

さて、今回は、佐倉市にある吉川英治ゆかりの場所について紹介します。
一つ目は、吉川英治の生母が生まれた場所です。
臼井駅方面から佐倉に向かい、国道296号線をいくと、坂を登り切った正面左側が江原台です。現在は、聖隷佐倉市民病院が立地していることで市内の人にならばある程度知名度があるエリアですが、それ以外はいわゆる一戸建て住宅が立ち並ぶ静かな住宅街です。
臼井方面から江原台を入ると、バス通が「逆コの字型」に江原台を走っています。その、2回めの角の近くを右に入ると、もうすぐ近くです。
さて、いくの生家があった場所は、今は江原台自治会の会館が建っていて、残念ながら当時の面影はありません。しかし、この会館の前に石碑が建っておりますのでそちらを紹介いたします。
ちなみに、いくの父は山上辨三郎(やまがみべんざぶろう)といい、初代の臼井町の町長を勤められたそうです。臼井町というのは、かなり地元ネタになります が、「臼井村、臼井田町、臼井台町、角来村、江原村、江原新田村」が合併して「印旛郡臼井町」として1889年(明治22年)にできました。この後、 1954年(昭和29年)に、「印旛郡佐倉町、志津村、弥富村、根郷村、和田村」と合併して、佐倉市というまとまった一つの市になりました。
いくは、山上辨三郎の三女として生を受け、この地で娘時代を過ごしたそうです。
所在地:佐倉市江原台1-9-4 江原台自治会館前

母いくの生家前に建つ碑
石碑は江原台自治会館の前に建つ。周囲は住宅街。
石碑の解説
碑には「辯三郎の息女は国民文学の父といわれる吉川英治の母であり娘時代をこの地で過ごした」とある。
いくの生家にあった桜の木
敷地内にあった桜の木。樹齢は、どうでしょう、100年くらいはあると思います。もしかしたら、幼き日のいくも見ていた桜かもしれません。

江原台を後にして北に向かうと、印旛沼方面へ降りるゆるい勾配になります。そこから線路を超えて西印旛沼を目指すと、竜神橋のたもとに、吉川英治の歌碑があります。
取材をしたのが冬の朝だったこともあり、写真が逆行で残念な感じですが、この石に彫られている歌は

 

 

「萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな 高きを忘れただぬくもれり」
とあります。
確かに、今でも印旛沼のほとりには萱(ススキ)が群生しておりますので、英治がこのあたりの風景を思い出して詠んだ歌なのかもしれません。もしくは、江原台のいくの生家のあたりから印旛沼方面をみると、昔はくじらの背のようなゆるい高台があったそうなので、そのあたりに群生していた萱の丘を思いだしてのことかもしれません。
萱の季語は秋ですから、秋の夕日に黄金色に淡く輝く萱の丘を母の胸になぞらえ、遠くからその景色を見つめた英次(英治)少年の幻のような遠い記憶、なんて考えるのはどうでしょうか。いや、少々センチになってしまいました。
次回は、いくのご実家の菩提寺である嶺南寺をご案内いたします。

>>吉川英治の母と嶺南寺

風車
石碑の正面に建つ風車。なんと整備中でした。
歌碑
歌碑です。逆光につき写真はいまひとつ。
江原台遠景。
歌碑の前から江原台を望む。遠い家々のあたりは、当時は森でした。
竜神橋と歌碑。
竜神橋のたもとに建つ歌碑。影になっていて、少々わかりにくい。
屋形船のりば。
歌碑から下がったところに屋形船の桟橋があります。左端に見えるのは、萱か?葦か?(葦でした)

その他の写真です。クリックすると、ずいぶん大きくなります。先日、問い合わせ窓口から「もう少し写真を大きくできないか?」と問い合わせをいただきました。そういう声には、元気づけられます。このサイトも、読んでくださっている人がいるんですね。感謝。

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2014年

2月

24日

佐倉、吉川英治、江原台のはなし 1

吉川英治といえば、日本でも屈指の歴史、時代小説家です。
日本の歴史小説の書き手で、ぱっと思いつく小説家はだれ?
と質問されれば、上位五人のうちの一人には入るのではないでしょうか。今はちがうのかな?よくわかりませんが。
代表作は、『宮本武蔵』、『新・平家物語』、『私本太平記』など。私は、宮本武蔵と新平家物語は読みました。
宮本武蔵に関して言えば、これまた日本を代表する漫画家の井上雄彦氏の『バガボンド』の原作として有名です。両方を読むと(特にバガボンドの後半は)、原作と漫画とは物語としてはずいぶんかけ離れておりますが、どちらも共に読み応えのある面白い物語です。
さて、今日はその吉川英治が、実は佐倉市とおおいに関係がある人物である、という紹介をさせていただきます。

結論からいってしまえば、吉川英治の母「いく」は、佐倉藩士の娘として、いまの佐倉市江原台に生まれているのです。旧姓は、山上といったそうです(出典「草思堂から」)。
江原台といえば、江戸時代は佐倉藩のお菜園があった場所です。お菜園では、佐倉城で食べる野菜や薬草が作られていたそうですので、いくの生家のまわりにも、畑があったのではないかと思います。

ちなみに、1970年ころまで、江原台は宅地造成されておらず、お菜園の状態がそのまま残されておりました。江原台の北側はゆるい下りになっていて、その先に印旛沼が広がっておりますが、その沼側に面した北側一帯から今の聖隷佐倉市民病院あたりは、ずうっと雑木林が広がっていて、当時はリスや狸やウサギがわいわいいやっていたそうです。

元へ。いくの夫は、旧小田原藩士である吉川直広という人物で、いくは直広の後妻であったようです。
この直広という人物が実にいろいろなことをやっていた人で、牧場経営をやって失敗したあと寺子屋を開き、その後はじめた貿易商でようやく生活が安定したのもつかの間、経営者と喧嘩して訴訟騒ぎをおこし、敗訴して刑務所にまで入るという、まさに波瀾万丈の人生。いくさんは、さぞ苦労したろうと思います。
さて、吉川英治は、本名は英次(ひでつぐ)といい、若干10歳にして雑誌に短編小説を投稿するなど幼くして才能を開花させていました。
けれど、父の浮き沈みの激しい人生に翻弄され、英治自身も小学校を中退して、職を転々とします。18歳のときには、船具工としてドッグで働いている折、作業中船底に墜落し、重傷を負っています。実は、私の父は船乗りで、父から何度かそういう事故について聞かされたことがあります。ドッグで、作業者が船底に転落する事故はわりとあるらしいのですが、結構な確率で死に至る大事故になるそうです。若かりし日の吉川英治が、そのとき亡くなっていても不思議ではなかったわけです。
その後の吉川英治については、Wikiなどに詳しいので、ご興味のある方はそちらでご確認いただくとして、彼の書いた小説が講談社で入選したあたりから、人生が好転しはじめます。しかしこのころ、彼の最愛の母いくが亡くなりました。吉川いく、1921年、大正10年没。合掌。
講談社や毎日新聞から小説執筆の依頼が多数舞い込んで、またたく間に売れっ子の時代小説作家になった吉川英治の初期の代表作は、『鳴門秘帖』という小説です。この小説、幕末期の公儀隠密と倒幕をもくろむ徳島藩主・蜂須賀重喜との戦いを描いた冒険活劇で、撃剣の激しい戦いあり、恋愛ありの面白い小説です。
この後、『宮本武蔵』などの小説を書き上げ、第二次大戦後は日本の敗戦の絵鏡として『新・平家物語』を書いたようです。
没年は1962年、70歳でこの世を去りました。

次回は、ちょっとしたエピソードを交えながら、佐倉市に残る吉川英治ゆかりの地などを紹介いたします。

>>佐倉、吉川英治、江原台のはなし 2

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2014年

2月

22日

小篠塚城と中世の佐倉 3

小篠塚城の歴史 後編

前編の続きです。

前編で、足利成氏と千葉孝胤のいざこざについて書きました。で、そのときに足利成氏がいた場所が、小篠塚城だったのではないか、という説の論拠も書きました。

その騒動の結果、成氏は孝胤の言葉を聞き入れ、千葉の正式な跡目は千葉孝胤率いる馬加系千葉家がよろしかろう、という裁断をくだす。それを聞いた実胤は、落胆して出奔し、その後歴史の表舞台にたつことはありませんでした。

さて、そんな騒動があった1472年が過ぎ、そこからしばらくは小篠塚城の歴史はいったん闇に沈みます。ここから30年間、誰がここの城主だったのかはわからない。

もし、本当に足利成氏が一時にせよここにいたのだとすれば、彼の息のかかった人物が居城にしていた可能性もありますし、いやしくも公方様が動座した城ならば城主をおかず、管理だけして『空城』状態のままだった、なんてこともあったかもしれません。次にこの城が歴史に登場するのは、またしても古河公方がらみの騒動のタイミングでした。

公式サイトには、

『1502年:2代・3代古河公方足利政氏・基氏父子千葉氏討伐のため約3年間小篠塚城に動座』とあります。

千葉氏討伐のため、政氏、基氏父子が動座、とは剣呑なはなしです。千葉氏にとってみれば、大事件といわざるを得ない事態だったことでしょう。
しかし、このいきさつは、どうも今ひとつわからないようです。
山内上杉顕定から政氏奉公衆「二階堂左衛門尉」への書状には、この古河公方vs千葉の原因を、古河公方足利政氏から千葉孝胤に下した命令に対して、孝胤が無視を決め込んだことである、という趣旨の内容が書かれているそうです。
(参考:サイト「千葉一族」)
とにかく、何らかの原因により、千葉と古河公方は佐倉の地で約3年近く睨み合うことになります。本格的な戦闘はなかったのかもしれませんが、馬を飛ばせば半日もかからずに到着する城同士が戦闘態勢を整えているわけですから、地元の農民の方たちは心が休まらなかったでしょうね。まったく、なんて時代でしょう。
先の参考サイト(参考:サイト「千葉一族」)を読むと、このとき、政氏と孝胤との間では、六崎のあたりで交渉事がなされたそうです。内容はといえば、孝胤の子供に、政氏の名前の一文字を使って名づけよ、という偏諱の要請を政氏がしたのに対して、孝胤がつっぱねる、という「ツンデレ合戦」だったようです。
喧嘩の原因も、交渉の内容も「そんなことかよ!」とツッコミを入れたくなります。
現在とは常識が違う時代なのであまり断定的なことは言えませんが、彼らとほぼ同時代には織田信長も生まれているわけで、もう少しなんとかならなかったのか、と思わないではありません。
いずれにしても、1504年には政氏親子は無事古河に戻っておりますので、千葉氏と足利との間では大きな戦にはならなかったのだと思われます。
この後の小篠塚城がどうなったのかを知ることができる文献は、残念ながら見つけることができませんでした。
もしかすると「こんな城あるから古河公方が来ちまうんだよ」ということで千葉氏主導で廃城(もしくは有力部下の館に格下げ)してしまった可能性もあるかもしれません。なぜならば、この当時すでに小篠塚城からほど近い弥富の地に、原氏が岩富城を作って入っておりましたので、軍事的、政治的にも小篠塚城の役割が終わったと考えても不思議はないわけです。それらについては、推論の域を出ない話ではありますが。

まとめると、小篠塚城の役割は、良くも悪くも千葉氏と古河公方の関係を取り持つよすがとしてあった、という気がします。
馬加系千葉氏にしてみれば、本宗家を襲って勝ち取った権威ですからどうしても「さらに大きな権威」の裏付けがなければ、下総の地を治める大義名分がたたない。そんなわけで、古河公方の後ろ盾はお家存続の絶対必要条件でした。
一方古河公方側としても、やれ堀越公方だの小弓公方だのと、関東ナンバーワンを狙う足利一門との対抗上、世俗の権力、つまり戦国武将たちの後押しが必要だった。そんな意味で、スネに傷をもつ千葉一族は、便利な存在であったともいえます。
そんな「もたれあい」の関係が、はたして両家にとってプラスだったのだろうか、なんてことを考えながら、とにもかくにもその両家をつないだ小篠塚城が果たした役割を思いつつ、筆をおきたいと思います。

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2014年

2月

22日

小篠塚城と中世の佐倉 2

小篠塚城の歴史 前編

前回紹介した小篠塚城公式サイトに「小篠塚城の歴史」というページがありますので、それを元に解説します。

『1284年:千葉宗家直臣が佐倉地域を知行した』
とあります。1284年といえば鎌倉時代の後期です。千葉一族は、元寇に備えて、本宗家の跡取りである千葉宗胤(むねたね)が九州に行ったまま帰ってくることができないため、その弟の胤宗(たねむね)が跡目を取るかどうか、という微妙なお家事情があった時代です。
弟の胤宗サイドの派閥としては、兄がいない間になんとか家臣団に自分の与党を増やしておきたいという思惑もあったでしょうから、そういう力学が働いての「知行」なのかもしれません。
『平河新兵衛入道・平河左衛門四郎等が所領を有していた』
とありますので、おそらくこのあたりは平河家が知行した、ということなのでしょう。
『13世紀末期、千葉氏により小篠塚城築城』とありますが、この頃に今見られるような立派な城としての体裁があったかどうかは難しいところです。ただ、13世紀の世紀末といえば、鎌倉幕府がいよいよ崩壊寸前の状態に追い込まれている時代ですから、地方豪族たちも自分の所領を守るために城の整備をはじめたとしても不思議はありません。
この後、小篠塚城の公式サイトでは日本の歴史の流れが紹介されているのみで、小篠塚城の動向を知る情報は掲載されておりません。
次に、小篠塚城が出てくるのは、
『1471年:初代鎌倉公方足利成氏古河を追われ千葉氏を頼り約1年間小篠塚城に動座』
という、歴史的な大事件についてです。
確かに、このとき足利成氏が堀越公方の征伐に失敗し、当時居城としていた古河城をも追われ、千葉孝胤を頼ったということはよく知られた事実です。
しかし、この時成氏が千葉孝胤の手引きでどこに居住していたのか、というのは『歴史の謎』の一つなのです。
まず、事態を複雑にしている要因の一つに、そもそも千葉一族が1471年に本佐倉城を居城にしていたかどうかが、よくわかっていないという点があります。
千葉側の本拠地がわからないのに、その千葉を頼った足利成氏がどこにいたか、なんてわからないよ、という話しです。
この時期の足利成氏が、小篠塚城に一時的な居を構えた、という説以外には
・千葉亥鼻城の周辺
・多古町の周辺
・本佐倉城の周辺
などがあるようですが、いまのところ定説らしきものはないようです。
この翌年、つまり1472年に、足利成氏は古河城を奪還して、古河に戻っております。
では、このとき、古河公方が「小篠塚城に住まった」という説の根拠はというと、若干複雑になりますが、以下のとおりになります。

千葉一族というのは、時代を少々さかのぼり、1450年代の室町の中期に、『下総千葉氏』と『武蔵千葉氏』に分裂するんです。そのあたりの顛末の詳細は次回簡単にお話ししますが、とにかくそういうことになる。
そのとき、古河公方である足利成氏は、どちらかというと『武蔵千葉氏』が本家になってもいいんじゃない、っていう立場を、あくまで『ないないに』もしくは『ひそかに』とるのです。
古河公方がそんな立場をとったことを聞いて穏やかでいられないのは『下総千葉氏』の頭領、千葉孝胤です。
「古河公方の成氏さんよ、ふざけんじゃないよ」という剣幕でくってかかる。
戦で負けて、自分の元に逃げてきてるにもかかわらず、何余計なこと言ってくれちゃってるのよ、という気持ちが爆発したわけです。
『太田道灌状』という文書に、そのあたりの顛末が書かれていて、このとき千葉孝胤が足利成氏に詰め寄ったのが篠塚の公方屋敷、となっている。それを根拠に、当時足利成氏は小篠塚城にいたんじゃないか、という推論がたつわけです。

>>小篠塚城と中世の佐倉3へ

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2014年

2月

22日

小篠塚城と中世の佐倉 1

はじめに

JR佐倉駅を背にして南下する一本道があります。どんどんいくと佐倉南図書館があって、その先をさらにずんずんいくと東関道を超えて道幅は突然狭くなります。
その、東関道を越えたあたり一帯を「大篠塚」といい、中世にはどうやら小さなお城だか砦だかがあったようです。今は、道路に沿って畑が広がり、その向こうは雑木林になっていて、砦があった当時を思わせるものは何もありません。
さて、本日の話題は「小篠塚城」です。大篠塚を横切って、細い坂道をくねくねと国道51号線方面に降り切ってしばらくいくと、左手にみえてきます。
舌状台地で、平地から台地の頂上までの比高差は、だいたい20mくらいでしょうか。
51号線のほうから北上すると大きな看板があるのですぐにわかるのですが、JR佐倉方面から南下するルートの場合、案内板がどこにあるかわかりずらいという難点があります。とにかく細い道を左に曲がると、乗用車7、8台は停められそうな駐車場がありますので、ご安心ください。

さて、この小篠塚城跡、しっかり整備されていて、土塁や郭などもほぼ完全な形で残っており、とても見応えがあります。
現在、「小篠塚城址をきれいにする会」という任意団体によって管理されているようで、サイトもできておりますのでリンクをはっておきます(こちら、公式サイト)。

実は私、2013年にこの土地を管理されているお寺の住職の方に取材させていただいたことがあります。
以前は単なる雑木林に成り果てていたこの場所を整備して、1周4km程度の遊歩道も作られるなど、実に精力的に活動しておられます。

今回は、まずこの小篠塚城の沿革を簡単に紹介した後、この城が関東の歴史の大舞台にたつある出来事を、何回かの続き物の体裁で皆さんにご紹介いたします。

>>小篠塚城と中世の佐倉2へ

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2014年

2月

21日

多古町の『隠れ卵塔』と日講聖人

先日、香取市にある『みちの駅 くりもと』に行ってきました。
佐倉市のネタではなくてすみません。
佐倉から、51号線をひた走り、国道44号に入って相当行くと到着。
今回は、そこで偶然みかけた『隠れ卵塔』という史跡がありましたのでそちらについて少々報告します。

『卵塔』というのは、お坊さんのお墓に用いられる石塔のことですので、『隠れ卵塔』などというときっと誰ぞに弾圧されたお坊さんのお墓があって、その悲しき物語があったりするのだろうと思って見に行きました。

道路からこんもりと土が盛られた小さな丘に、こんな具合に破壊/修復された石塔が並んでいますが、卵塔はどこにも見当たりません。
そこで、この場所に掲げられている看板を読んだところ、やはり『弾圧されたお坊さんの物語』がありました。

ざっと説明すると以下のとおり。

日蓮宗の宗派のひとつに「不受不施派」というのがあって、その教えが江戸幕府の政策にあわず、弾圧されたそうです。
その派の偉いお坊さんであった日講は、幕政批判を展開した罪で、1665年、今の宮崎県佐土原町に流罪になってしまいます。しかし、かの地で日講は「一萬部読経」なる行を成就したそうで、その記念に日講の弟子たちの手によって1705年に建てられたのが、どうやらこの石塔群であるようです。
しかしながら、1794年に、この石塔群は当時の為政者の知るところとなり、看板のとおりに言えば『石塔は三日三晩焼かれ、そして打ち砕かれ土中に埋められ』たのだそうです。
なんともひどい仕打ちです。宗教にはあまり関心のない私も、気の毒だと思いますね、これは。そんなたいそうな弾圧を受けたということは、この地に日講さんの教えを守っていた宗徒の方がけっこうたくさんいたのだと思いますが、その人達もこのときひどい仕打ちを受けたんでしょうか。
その後、明治になり、宗教弾圧もなくなってから、1876年、看板にあるとおり書くと『沢の信徒や堀越義昌氏』らによって、掘り出され組み合わされたのが、今に見る『史跡 隠れ卵塔』とのことです。
『沢の信徒』の意味が今ひとつわかりませんが、この地に『隠れキリシタン』ならぬ『隠れ不受不施派』が、脈々と日講さんの教えをつないでいたんですね。
写真をみていただくとわかりますが、確かに石塔がこれでもかというくらい砕かれます。石がササラみたいになっているので、針金でぐるぐる巻になっていたりしてます。
宗教って、すごいですね。いろいろ考えさせられました。

※興味があったら下の写真をクリックしてください。少しだけ大きくなります。

追記
ちなみに、この近くの多古町にある東禅寺は、かの千葉一族の惣領であった千葉胤直(たねなお)公が亡くなった地でもあります。室町時代の中期に、関東の覇権をめぐる争いに飲み込まれるかたちで、千葉一族は『鎌倉公方派』と『関東管領上杉派』に真っ二つ分かれてしまいます。
千葉惣領の胤直公は上杉方につきますが、幕張のあたりを居城としていた公方派の馬加康胤(まくわりやすたね)公らの夜襲にあい、今の千葉市中央区亥鼻にあった城から逃げてきたのが、多古町でした。
その後、馬加康胤公の激しい攻撃を受け、落ち延びた先の東禅寺というお寺で、胤直公は自害してしまうことになります。享年42歳前後。このとき、息子の胤宣は弱冠15歳で胤直公と運命をともにしています。
この後、いろいろあって千葉一族は結局本佐倉城を居城にするわけですが、そのあたりの顛末は次回公演でくわしくお話しします。
それにしても、多古城跡と東禅寺は、見ておきたかったぜ。

※文章中、「多古町」としていたところを、「香取市」に変更しました。ご指摘くださったひらやま様、遅ればせながらで恐縮ですが、ありがとうございました。

※ほりこし様「沢の信徒」の「沢」は地名でしたか。ご教示いただきありがとうございました。

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2014年

2月

06日

佐倉、松林寺と土井利勝公

松林寺(しょうりんじ)は、佐倉市の地方裁判所の向かいにあるお寺です。少林寺とヨミは同じですが、もちろん拳法の使い手がいるわけではありません。
佐倉藩四代目の藩主、土井利勝公のご両親と奥様の供養塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)がたっているので、いつかは当ブログで紹介したいと思っておりました。
佐倉駅の方面から国道296号線を東に坂を上ると、左手に佐倉高校があります。佐倉高校正門に近い信号機を右に折れて300mくらい行ったところにあります。
現場にあった説明用の白い塔に書かれた内容によると、中央の塔が利勝公の母、左が父である土井利昌公、右側が利勝公の正室のものだそうです。
1630年、利勝公ご母堂の三十三回忌の法要にあわせ建立した、とあります。ご両親のお墓は、当初は愛知県岡崎市にあったそうですが、寛永年間に松林寺に改葬されたようです。
ちなみに、土井利勝公ご自身の墓は、茨城県古河市大手町にある利勝山正定寺(しょうじょうじ)にあるそうです。木更津にある證誠寺とヨミは同じですが、狸が出てきてぽんぽこやっているわけではないようです。
元へ。なんと、この写真にある宝篋印塔は、2011年3月11日におきた東日本大震災の折、倒壊してしまったそうです。そこで、現状復旧工事の際、佐倉市教育委員会が発掘調査をしたところ、利勝夫人の石塔直下から、火葬骨を埋納した備前焼の甕が出てきたとのこと。小柄で華奢な若い女性のお骨であったそうで、 おそらく夫人のものであったろうと推定されるようです。利勝公の奥様は、若くして亡くなられたのでしょうか。
なお、このお寺に所蔵されていた古い絵図にも、境内の同じ場所にこの三基の石塔が描かれているそうで、江戸の昔からほとんど同じ場所に建てられていたことがわかるとのこと。

ちなみに、土井利勝公といえば、徳川家康公のご落胤説もある江戸初期の大大名です。
幼いころは二代将軍秀忠公の傅役で、長じては老中になります。三代将軍家光公の時代には当時辣腕を振るっていた本多正純公が失脚したことで、幕府の最高実力者と呼ばれるまでになります。
この方、なんとあの関ヶ原の合戦の折、有名な真田の抵抗にあって信州上田城で足止めをくってしまった秀忠公に付き従って従軍した経歴を持ちます。結果、関ヶ原の合戦に間に合わず家康公が怒ってしまったというあの話の、怒られる側にいた人物ですね。
佐倉藩3万2000石で利勝公が佐倉に入ったのが1610年ですから、将軍秀忠も大御所家康(没年1616年)も健在だった時代に、佐倉藩に入ったことになります。
利勝公が佐倉藩でおこなった最大の功績は、なんといってもあの「名城」佐倉城を作ったことでしょう。じゃ、佐倉藩の初代から三代までの武田家、松平(長沢) 家、小笠原家が執務した藩庁はどこだったのか?というのが気になるところですが、しっかりした資料がないうえに、この三代の藩主はみな数年で移封、転封をしてしまったので、よくわからないようです。
さておき、利勝公が佐倉藩の藩主であったのは1633年までで、最後には今の茨城県の古河藩藩主としてその生涯を終えます。没年1644年。
そんな理由で、利勝公のお墓は茨城県古河市大手町の利勝山正定寺にある、というわけですね。

さて、長い前置きになってしまいましたが、お寺の本堂の写真です。「ちばの観光まるごと紹介」というサイトでは
『本堂は、土井利勝が春日局に譲り受けた「聖観音像」を、安置する為に建てた観音堂です。』とあります。確かに、普通のお寺とちがって、ともすると古民家の趣きすらある感じで、境内には少々入りずらい雰囲気。かつて権勢を誇った土井家の菩提寺としては、ずいぶんひっそりとした印象があります。
正面向かって左側の土塁の上に、威風堂々といった風情で巨木が立ち並んでいました。樹種は不勉強につきよくわかりませんが、シイやケヤキでしょうか。樹齢は数百年はあるように見えました。まさか、利勝公の時代のもの?なんて思わせるに十分な風格です。

宝篋印塔の右側にあったお地蔵さんや庚申塔など。この写真の一番手前に写っている石塔は、たぶん庚申塔だと思うのですが、青面金剛の下に邪気も三猿もいないのでもしかしたらちがうかもしれません。
背面には、ほとんど読み取れないほど風化した彫文字で「文化八年未年 七月廿六日」とありました。西暦にすると、1811年9月2日。佐倉藩では、堀田正時公が亡くなった年です。
堀田正睦公御年満一歳。なんとも、感慨深いです。

このお寺、ひそかに佐倉七福神めぐりの札所(?)であるようです。松林寺は毘沙門天とのこと。この近くの甚大寺も毘沙門天?えぇっと、どうなっているのでしょう。今度、調べてアップしますね。

立札のイラストは、なんとあの佐倉市の誇るタレント、車だん吉さんが描かれているようです。「お笑い漫画道場」懐かしいぜ、なんて言うと年齢がばれますか。今年で、43歳になります。ふぅ。

というわけで、だん吉こもんのおまけコーナーでした。

下に、撮った写真をアップしておきます。画像をクリックすると大きくなります。興味のある方は、ご覧下さい。

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2014年

1月

29日

師戸城跡にいってきました

臼井駅からみるとほとんど真北に500メートル程度いったところに、臼井城跡があります。
そこから、さらに北へ1.5キロほどいくと、西印旛沼をへだてて師戸城というお城の跡があります。
現在は西印旛沼を南北につなぐ「船戸大橋」がかかっているので、臼井-師戸間は車で行き来することができますが、橋がかかる1963年までは「舟戸の渡し」という渡し船が唯一の交通機関だったようです。わりと最近まで、渡し船だったんですね。
さて、今回とりあげるのは「師戸城」です。臼井城からは目と鼻の先にあり、臼井城主にとっては、「水運を使った搦め手」ともいうべきお城だったのではないでしょうか。

印旛沼と佐倉千葉氏与党の諸城
印旛沼と佐倉千葉氏与党の諸城

上図は現在の地図をキャプチャしたものなのでわかりにくですが、中世の印旛沼は香取海といわれる大きな内海で、イメージとしては京成本線の北側に沿って香取海が迫っていたようです。
師戸城跡は、現在「印旛沼公園」になっており、城跡とわかる目立った案内は見当たりませんでした。立地としては、臼井側から車で北上すると船戸大橋を渡って割合すぐに入口があります。
駐車場までの道はゆるいスロープで、上がり切ると思いのほか広い駐車場に到着します。
公園に入るとすぐに、写真の掲示板があります。

掲示板に描かれた図で城のざっとした縄張りは確認できますが、現在地の表示と公園内の施設との照らし合わせが ないために、ちょっととまどいます。そんなわけで、下のサイトにあった公園の見取り図のキャプチャを掲出しておきます。
http://www.pref.chiba.lg.jp/kouen/toshikouen/guidemap/inbanuma/annaizu.html

これを見ると、公園東側の芝生広場が本丸、展望台のあたりが二の丸、野球場のある自由広場が三の丸ということになりそうです。
だいたいの立地がわかったところで、師戸城の歴史についてちょっと書いてみたいと思います。

掲示板を見ると、師戸城の成立は14世紀とあります。14世紀といえば、世は鎌倉の末期から室町成立の動乱期、下総の地を治めていた千葉一族は、権力の激しい移り変わりに翻弄されていました。
1333年、鎌倉幕府が足利尊氏や新田義貞らによって倒された後、御家人衆は後醍醐天皇に反旗を翻した足利方と、あくまで天皇を擁護する新田派に分かれて争うことになります。
その折、千葉一族も足利方を強く推す肥前千葉氏と、京都の地で動かない千葉介千葉氏がおり、必ずしも一枚岩ではなかった時期です。
この後も、室町幕府は観応の擾乱などにより「勝ち残る武家のてっぺん」の一つの椅子をめぐる争いが続いたのが、14世紀です。
ちなみに、千葉一族の庶流である臼井氏が臼井城におさまった時期は平安末期です。とっても昔。最初の臼井城主である臼井常安は、12世紀初頭から末にかけて生きた人物で、千葉常胤とともに源頼朝に仕えたこともあるようです。
仮に、その臼井常安という人物が12世紀初頭に今の臼井城の原形を整えたとすると、師戸城ができるまでに100年以上の時間が流れたことになります。その「師戸城なし」の百数十年という時間は、そっくりそのまま鎌倉時代、というわけです。
城を作るというのは、ざっくり言えば戦に備えるという意味にあたるわけで、そう考えると鎌倉時代というのがいかに千葉一族にとって「比較的安心だった時代」であったのかがわかります。
師戸城の初代城主は、臼井氏四天王の一人である師戸四郎だろうということです。臼井氏四天王って、どんな人たちだったんでしょうね。
この城、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の折、本佐倉城や臼井城などの城とともに豊臣方の手に落ちる、というか、城が明け渡されたそうです。
ちょうど同じ時期の攻城戦を描いた小説が「のぼうの城」で、映画にもなってますので、興味があったら是非。小説、映画ともにとても面白いものでした。まかり間違えば、師戸城や本佐倉城や臼井城だって、ああいうことにならなかったとも限らない。
師戸の本丸の土塁から印旛沼を眺めたとき、印旛沼という巨大な内海を中心にした本佐倉城、臼井城、師戸城という3つの城が、もし一人の強力なカリスマのある人物の元で「一つのまとまりとしての政治・戦略拠点」として利用されていれば、あるいは・・・なんて考えたりしました。

【おわりに】

梅園の祠
梅園の祠

上に既出の図でいうと「梅園」の奥に、私と一緒に城跡を歩いていた兄がこんな祠をみつけました。この石のくり抜きの中には、小さなお地蔵さんか何かがあったのだと思いますが、今はぽっかりとした空洞があるばかりです。
この石の、向かって右側の側面を拝見させていただいたのですが、そこにはくっきりとした文字で享保と彫られていました。八代将軍吉宗の改革や、飢饉のあった享保に、誰が、どんな思いでここに祠をたてたのか、しばし考えてしまいました。

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